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6ー2:午前11時半の現実 (4)

「ふぅん、ここが佐藤くんの部屋だったのか」 興味深そうに見回して、理人さんがボストンバッグをそっと下ろした。 玄関を上がって左側、やたら急な階段を上ってすぐ右側にあるのが俺の部屋だ。 決して広くはないけれど、高校を卒業して家を出るまでの思い出が詰まった場所。 俺がいない間は物置としての役割も追加されているから、さすがにすべてが当時のままというわけにはいかないけれど、それでもやっぱり懐かしい。 「ほんとにスーツじゃなくていいのかな?」 スカイブルーのネクタイを解きながら、理人さんが不安そうに呟く。 鞄を開けて黒いシャツとジーンズを取り出し、手早く着替えた。 「あ、お土産渡さないと」 クリーム色の上品な紙に包まれた箱を白い紙袋に入れ、 「いや、ご仏壇が先か?」 今度は小さな黒い箱を手に持ち、真剣に悩む。 そんな理人さんの一挙一動を見守りながら、俺はなにも言えなかった。 「佐藤くん?」 「……」 「どうした……?」 「理人さん……」 「ん?」 「ごめんなさい」 「えっ、なにが?」 「さっきの父の……」 台詞も、舐め回すような視線も、値踏みするような表情も、全部。 「ものすごく失礼だったと思います。ごめんなさい……」 理人さんは一瞬ポカンと俺を見上げてから、アーモンドアイを細めて微笑った。 「そんなことない、普通だよ」 「でもっ……」 「拳の一発でも二発でも飛んでくるの覚悟してたから、むしろホッとした」 「拳?……って、まさかそんな」 「佐藤くんのお父さんにとって俺は〝大事な息子を同性愛の道に引きずり込んだ男〟なんだよ。だから殴られて当然だと思ってたし、そのつもりだった」 「そんなっ……」 そんなの違う。 事実じゃない。 理人さんは、俺を『引きずりこむ』ようなことはなにもしてない。 今まで俺がしてきたことは、選んで来た道は、全部俺の意志だ。 「理人さんはなにもっ……」 「佐藤くんを手放さなかった。佐藤くんと別れなかった。それが俺のすべきだったけど、しなかった選択。それはまぎれもない事実だろ」 「そ、れは……」 「でもほら、殴られもしなかったし、こうして家にも上げてくださっただろ?」 「……」 「俺はもうそれだけで、嬉しいんだ」 「理人さん……」 ああ、まただ。 また、俺はわかってなかった。 ただ、浮かれて。 目に見えるものだけを受け入れて。 音になった言葉だけを信じて。 なにも、わかってなかった。 ――ちゃんとフォローしてやれよ。 葉瑠兄の言葉の意味が、やっとわかった。 今、ここで。 この家の中で、理人さんの味方は、 俺しかいない。

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