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6ー3:午後6時の団欒 (4)

夕方になり太陽が傾き始めると、室内でもわかるくらいに体感温度が下がってきた。 母さんに手渡されたパーカーを手に、外に出る。 うっすらと苔に覆われた石を踏みしめながら、曾祖父たっての希望で掘られたらしい池を目指した。 庭の角にある池は決し深くはないけれど、五匹の鯉たちが悠々自適に暮らせるほどには広い。 少しずつ大きくなっていく水音を頼りに足を進めると、見覚えのある後ろ姿がふたり分立っていた。 「理人さ――」 「うっそ、タメじゃん!」 俺が声をかけきるより早く、甲高い声が響いた。 瑠加が、背伸びして理人さんに詰め寄っている。 「あたし今年32なの!誕生日3月ってことは早生まれの31ってことでしょ?」 「あ、同じ年……」 「やっぱり!だからほら、ますます敬語はなしね?普通にしゃべって」 「でも……」 「いいから!あ、あとで一緒に写真撮って?友達に自慢する!」 「えっ、写真!?」 理人さんが、上半身を仰け反らせる。 その拍子に手に持っていた小さなボウルが傾き、鯉の餌がポロポロと落ちた。 ポチャンポチャンと音を立てながら池の水を叩き、華やかな鯉たちを喜ばせている。 思わず漏れそうになる苦笑を隠し、ふたりに歩み寄った。 「瑠加、馴れ馴れしすぎ」 ふたりは同時に振り向き、 「佐藤くん……」 理人さんがホッとしたように目尻を下げると、 「なによ、別にいいじゃん!」 瑠加は反対に眉を釣り上げた。 「あんたの彼氏ってことは、あたしの義弟みたいなもんじゃない」 ねえ理人?とさらに馴れ馴れしくなる瑠加を、理人さんは呆然と見下ろした。 ふたつのアーモンドアイをこれでもかと見開きながら。 「あの、瑠加ちゃんは……」 「あ、だめ。ちゃん付けされたら惚れちゃう」 「えっ」 「名前で呼んで。ちゃんなしで」 「ええっ……」 理人さんが救いを求めるように俺を見つめてくるが、俺はただ肩をすくめるしかない。 これが瑠加で、瑠加は俺の姉だから、瑠加の弟の俺は、瑠加に逆らうことなんてできない。 きっと呼び捨てにされるまで、何度もこのやり取りを繰り返すことになるだろう。 理人さんもそれに気づいたのか、少しだけ躊躇ってから、覚悟を決めたかように瑠加に向き直った。 「あー……」 「うん?」 「瑠加、は……」 「ありがとう!」 荒い息遣いで場違いな礼を言われ、理人さんが苦笑する。 でも、すぐに表情を引き締めた。 「その、気持ち悪く……ないのか?」 「は?なにが?」 「いや、だからその……俺、男だし……」 「だから?」 「え?あー……弟さん、に手を出した、ってことになるし……」 「で?」 「え!?いやだから……気持ち悪くないのかなあ、と……」 「全然?」 「え、全然……?」 「うん、全然」 瑠加のふたつの目が斜め上にいる理人さんを見上げ、まっすぐな視線を送る。 「ていうかさ、もうすぐ平成も終わるってのに、なに昭和みたいなことぐだぐだ言ってんの?」 「ぐだぐだ、って……」 「そもそも恋愛なんて当人の自由じゃん。好きなら好き、嫌いなら嫌い。それって感情でしょ?理屈じゃどうしようもならないことじゃないの?」 「そう、だけど……」 「脳の分泌物がーとか、科学的にはーとか言う輩もいるけど、だったらダメ男ばっか好きになるあたしの脳はどうなってんだ、って話よ」 「……」 「それに、男同士とか女同士とかそういうことの前に、あたしは弟の恋愛を邪魔するような姉じゃないの。めんどくさいから応援もしないけどね」 「……」 「そういうことだから。わかった?」 「……うん、わかった」 理人さんが、今にも消えてしまいそうな声で言った。 目頭が僅かに濡れている。 瞬きを繰り返しているのは、そこに溜まった雫をこぼさないためだろうか。 瑠加が、理人さんのことを当たり前のように受け入れてくれた。 もしかしたら『受け入れない』という選択肢すら、瑠加の頭には浮かばなかったのかもしれない。 そう思ってしまうくらいに、あっさりと。 今日ここに来るまでは、これが〝普通〟の反応だと思っていた。 でも、そうじゃなかったと思い知らされた。 自分の無知を突きつけられたようで、痛かった。 それなのに今、一度は失ったと思っていた〝普通〟がここにある。 「ありがとう」 理人さんは、丁寧に言葉を紡いだ。 瑠加がもう一度斜め上の理人さんを見て、固まる。 そして、 「ああだめ、やめて!そんな風に微笑まれたら惚れちゃう!」 ああ。 やっぱり、兄弟って……いい。

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