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6ー4:午後8時の贈り物 (3)

「ちょっと、英瑠」 「ご、ごめん」 母さんが、テーブルの端っこに折り畳んであった台拭きを差し出してくれた。 できるだけ速く右手を動かす俺を、父さんの鋭い視線が『発言禁止だって言っただろ』と咎めてくる。 でもこればっかりは許してほしい。 どう考えも不可抗力だ。 じわじわと面積を広げていた麦茶を全部ふき取り、椅子に座りなおす。 すると、緩んでいた空気が一気にまた張り詰めた。 理人さんは、父さんの視線が自分の上に戻ってくるのを待って息を吸う。 「ええと……」 「あ、その前に、どっちが告白したの?」 「あっ……そ、れは……」 アーモンドアイの端っこに、俺の姿が映る。 でも素早い瞬きに紛れ、あっという間にいなくなった。 「息子さんから、です」 「嬉しかった?」 「……戸惑いました」 「そうなの?」 「その時の息子さんは僕にとってまだ単なる顔見知りだったので……いきなりで驚きました」 「お前、そんな状況で告白したのか!」 父さんが急に前のめりになった。 見開かれた目の奥で、複雑な感情がせめぎ合っているのがわかる。 驚愕、不信、落胆。 感心、もそのひとつだ。 「……俺だってやる時はやるんだよ」 嘘だ。 本当は、なにも考えてなかった。 勢いだった。 初めて間近で見る理人さんの一挙一動に見惚れ、夕焼けの色にわけもなく感動し、触れ合う肩の温度に鼓動が疾った。 その後どうなるとか、どうしようとか、そもそも男同士であることさえも、あの時は頭から吹っ飛んでいたんだと思う。 ただ、平行線のままだった俺たちの間にやっと生まれた結び目を、解いてしまいたくなかった。 あの時は本当に、ただそれだけだった。 「それで?英留のどこが好きなの?」 まだ言うのか。 一度は遠ざかったと思っていた話題を引き戻され、いったいどうしたものかと思う。 父さんの言うとおり『あっちに行ってた』方がよかったのかも、とさえ。 だってこれ、俺はどんな顔して聞いてればいいんだ? こっそり隣を盗み見ると、理人さんの形の良い眉が僅かに持ち上がっていた。 綺麗に並んだ歯で下唇を少しだけ噛み、これから続く言葉を口にしていいものか、考えあぐねているようだった。 でもすぐに唇を真一文字に引き締めた。 「かわいいところです」 「分かる!」 「えっ……」 「誰に似たのかこんな風に図体だけはでかくなってしまったけど、それでもやっぱり私は英瑠が可愛くてしかたないんだ。末っ子という加点はあるにしても、親にとって子供ってのはどんなに成長しても可愛いもんなんだ、って実感して驚いてるよ」 だから、さあ。 いったい俺は、どんな顔して聞いてりゃいいんだって! 理人さんの頬が緩み、父さんも目尻を下げる。 微笑み合うふたり。 やがて、口角の上がった口が固い言葉を吐き捨てた。 「だから正直、英瑠が『彼氏』を連れてくるって聞いた時は心臓が止まるかと思った」 止まったのは、俺の心臓だった。 理人さんは、微動だにしない。 ただ、静かな眼差しで父さんの次の言葉を待っている。 まるで、最初からそう言われることを知っていたかのように。 「君のことをどうこう思ったわけじゃないんだ。いくら世の中が昔に比べて変わってきているとはいえ、世間の目はまだ厳しい。本人たちが幸せならかまわない、なんて綺麗ごとに過ぎないと私は思う」 「はい。僕もそう思います」 「ん?」 父さんの声と、俺の心の中の声が、重なった。 「英瑠くんと一緒にいれば、どんな素敵なご両親のもとで育ったのかすぐにわかります」 母さんが、まあ、と小声で喜び、父さんも照れくさそうに鼻の頭を摘んだ。 俺は、一言一句とても丁寧に言葉を紡ぎ出す理人さんの横顔を、ただ見つめていた。 「僕にはもう親はいません。息子の結婚式で挨拶するとか、孫を可愛がるとか、子供を持つ親なら一度は夢見ることも、もう叶えてあげることはできません。だからこそ、英瑠くんには家族を苦しめるような人生を歩んでほしくないと思っています」 理人さんが、ふとこちらを見た。 黒く丸いふたつの瞳が、俺の情けない顔でいっぱいになる。 「だから、今日もし息子さんと別れろと言われたら、そう告げるつもりでいました」

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