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6ー4:午後8時の贈り物 (9)

「あああああ!」 食卓を取り巻いていた暖かい空気が、突如切り裂かれた。 瑠加の叫び声に。 「お父さんが理人泣かせてる!」 「なっ!?違う、誤解だ!父さんはただ……」 「別れろとか言ったんじゃないの!?」 「言うわけないだろう!」 肩までの髪をこれまでかと振り乱し、大量の水滴を撒き散らかしながら、瑠加が父さんに詰め寄る。 一気に涙が引っ込んだらしい理人さんが「あ……」と手を伸ばしたけれど、ふたりはそれに気がつかないままぎゃあぎゃあ騒いでいる。 やがて、瑠衣が瑠未の頭をタオルで拭きながら現れ、目の前の惨状に元からしかめっ面だった顔をさらに歪めた。 リビングで身を潜めていた葉瑠兄と未砂さんも、半開きだった扉の隙間から躊躇いがちにその姿を見せる。 濡れた頬に気がついて理人さんをヨシヨシする瑠未の手をさりげなく自分の方に引き寄せながら、葉瑠兄が「俺のことはお兄様でいいから」とおどけた。 理人さんは一瞬はにかんだように目を細め、でもすぐにまた涙腺を崩壊させてしまった。 「ちょ、理人?なに、マジ泣き?」 「だめだっ……ごめん……も、止まらない……っ」 「ああもう、だからだめだって!マジ泣きでも、理人なら許せるわ……」 母さんが咎めるほど無遠慮な瑠加の言葉も、今の理人さんに催涙剤にしかならないようだ。 身体中の水分を放出する気じゃないのかと疑うくらい、ぽろぽろぽろぽろと涙の粒を生み出し続けている。 これはあれだ。 一度本気で泣き出したら止まらなくなっちゃうやつ。 俺にも覚えがある。 ずいぶん前の記憶にはなるけれど。 きっと理人さんは、あのエイプリルフールの夜から、ずっとこの日のことを考えていたに違いない。 俺にはそんな素振りを一切見せず、ひとりで悩んで、ひとりで決断した。 自分のことなんてそっちのけで、俺と、俺の家族のことだけを考えて、今日ここに来ることを決断した。 その先にどんなことが待っていようとも、受け入れる覚悟で。 その結末が、たったひとりで生きていく孤独な未来だったとしても。 ――いい人と出会ったな。大事にしろよ。 当たり前だ。 粗末になんか、できるもんか。 「理人君、あんまり擦ると目が腫れるわよ」 「あ……ごめんなさい……」 「冷やした方がいいな。未砂、保冷剤あるか?」 「もう出してきたよ」 「タオルで巻いた方がいいんじゃない?」 「布巾の方が薄くていいだろう」 「はい、理人」 「あ、りがとう……」 ああ、なんでだろう。 おさまったはずだったのに。 また、視界が滲む。 大好きな家族と。 大好きな恋人が。 ひとつのテーブルを囲んで、笑い合っている。 これ以上の幸せが、あるだろうか。 「理人さん、大丈夫ですか……?」 「あー……うん」 すったもんだの末、二番風呂に放り込まれた理人さんは、俺が自室に戻る頃には見慣れたパジャマに身を包み、布団に横たわっていた。 目の上には、保冷剤が乗ったままだ。 初代保冷剤がすっかり硬度を失った状態で枕元にそっと置かれているから、今理人さんの目を冷やしているのは、冷凍庫の奥から発掘した二代目ということになるんだろう。 思わずくすりと笑いを漏らし、左側の布団に潜り込む。 すると、保冷剤を抑えていた手がするりと落ち、布団の境目から潜り込んできた。 あっという間に俺の手を探し当て、そっと握り込む。 「疲れた……」 「お疲れ様でした」 「……うん」 冷えた指先が、俺の手に食い込んだ。 「ありがとう」 「理人さ――」 「ありがとう」 「……はい」 そっと絡めとった理人さんの左手は、もう震えていなかった。

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