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閑話:午前11時の逢引 (8)

メイン料理のステーキに瑠加ちゃんと舌鼓を打っていると、ふとピアノの音が止んだ。 BGMはすぐにスピーカーに切り替わり、途切れることなく続いていく。 もしかしたら、生演奏じゃなくなったことに気づいていない人も多いかもしれない。 対角線状の角から、佐藤くんの姿が消えていた。 休憩だろうか。 ちょうどいい、今のうちに。 「瑠加ちゃん、ごめん。ちょっとお手洗い」 「はーい、行ってらっしゃい」 手触りのいいナプキンを置いて、席を立つ。 椅子に当たらないように壁伝いに歩き、反対側の奥へと向かった。 なんだか、気持ちが浮ついている。 結婚を控えたカップルたちに囲まれているせいか、気分が変になっているようだ。 俺だったら、とか、佐藤くんとなら、とか。 そんな突拍子もない〝もしも〟ばかり考えてしまう。 俺たちの結婚式では佐藤くんに生演奏してもらおう。 そこまで考えて、心の片隅にいた冷静な自分が「なんでやねん!」とツッコんだ。 いや、いかにもらしい関西弁でツッコんでいるんだから、冷静な自分なんてきっとどこにもいないんだろう。 本当に、どうかしている。 広く綺麗なトイレには、誰もいなかった。 やっぱりここも、白くて明るい。 さっさと用を足して戻ろう。 佐藤くんのピアノは、一音たりとも聞き逃したくない。 そう思い、歩調を速めた――ところで、 「うわっ!?」 腕がものすごい力で引っ張られた。 「いっ!」 後頭部に鈍い衝撃があり、思わず目を瞑る。 闇の世界の端っこで、ガチャっと鍵のかかる音がした。 「んっ……んんっ!?」 息ができない。 「ふ、あっ、さ、さとう、くっ……ん、んぅうっ……!」 噛みつくような口づけが降り注ぎ、そして唐突に止んだ。 「はぁっ……なにやってんですか」 「え?」 「なんでブライダルフェアに瑠加とふたりで来てるんですか」 「ブ、ブライダルフェアだなんて知らずに来たに決まってるだろ!俺は普通にランチに付き合うだけだと思って……」 「それだってデートでしょ」 「デートじゃない!ただ瑠加ちゃんから付き合ってほしいって頼まれ……」 「断れよ」 「だ、って……」 押し付けられた手首が痛い。 佐藤くんの乱れた吐息が、直接鼻先に降りかかってくる。 熱い。 それに、怖い。 まつ毛の先が交わりそうな距離で、佐藤くんが怒ってる。 ブライダルフェアなんて知らなかったし、知ってたら断ってたかもしれないし、でも来たからこうして佐藤くんに会えて、佐藤くんのピアノも聴けた。 俺には、そのことがなによりも嬉しいのに。 なんだよ。 せっかくいい気分だったのに。 せっかく佐藤くんに惚れ直してたのに。 なんでそんな怖い顔、するんだよ。 「なんで、怒るの」 「怒ってるわけじゃ……」 「しょうがないだろ。家にいたって、佐藤くんがいなけりゃひとりぼっちじゃないか」 瑠加ちゃんの誘いがなければ、きっと俺は家から一歩も出なかった。 もしかしたら、ベッドからも出られなかったかもしれない。 シーツに残っていた佐藤くんの残り香が甘すぎて、無機質な空間にひとりでいたくなかった。 俺をこんなにもひとりでいられなくしたのは佐藤くんなのに。 なんで責められなきゃならないんだ。 まずい。 視界が揺れてきた。 「もう、理人さん……」 「泣いてない!」 「泣いてます。かわいいな、ちくしょう」 「かわっ……んむぅ!」 ぎゅうぎゅうと唇を押し付けられ、薄い扉がカタカタと鳴った。 「んっ……いっ!」 首筋に走った痛みに、肩が跳ねる。 ジンジンと脈打つそこを癒すようにペロリと舐め、佐藤くんが微笑った。 「後悔、しといてください」

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