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7-2:午後6時半の来訪 (8)
「ごめんね、突然」
百合ちゃんは、扉を押し開けたままの体勢で動けなくなってしまった俺を見上げて、申し訳なさそうに肩をすくめた。
艶のある茶色い髪が、さらりと揺れる。
「住所変わってなくてよかった。同窓会以来だよね。元気だった?」
「あ、ああうん、元気」
「よかった」
変わってない、と思った。
目を細めて笑うところも、言葉と言葉の合間に上と下の唇を擦り合わせる癖も。
百合ちゃんは高校の同級生で、俺にとって初めてできた彼女だった。
交際期間は一年にも満たなかったけれど、お互いに真剣で、それでいて滅茶苦茶で、幼なくて甘酸っぱい恋だった。
最後に会ったのは大学を卒業した年の夏だから、もう五年も前になる。
その時にも大人っぽくなったと思ったけれど、今日の百合ちゃんは、さらに雰囲気が落ち着いている。
「英瑠くん、変わらないね」
「そう、かな?あ、よかったら上がって。あとで人が来る予定なんだけど、たぶんまだ……」
「ううん、いいの!この後友達とご飯食べに行く約束してるんだ。名古屋来るの久しぶりだし、届けたいものがあったから寄らせてもらっただけなの」
「届けたいもの?俺に……?」
「きっといないだろうからポストに入れるだけにしようと思ってたんだけど……電気、ついてるの見えたから。できれば直接渡したかったから、会えてよかった」
百合ちゃんは淡いベージュのハンドバッグから、白い封筒を取り出した。
金糸で縁取られたそれは、受け取ると不思議な重さがあった。
「結婚、するんだ」
「うん。実は入籍はもうしてるんだけどね。だから式だけ」
「そっか。おめでとう」
思いがけずすんなりと祝福の言葉が零れ、自分でも驚いた。
もちろん未練があったわけではないけれど、こういう時は少なからず複雑な気持ちになるものだと思っていたのに。
「式、いつ?」
「9月」
「ごめん、俺は行けない」
「うん、わかってる。だから出欠の葉書も入れなかった」
「えっ」
「切手代もったいないし」
楽しそうに弧を描いていた百合ちゃんの口元が、ふと引き締まった。
「英瑠くんは気づいてなかったかもしれないけど、わたし、高校生の時本当に自分に自信がなかったの。でも、英瑠くんがわたしを好きだって言ってくれて、一生懸命大切にしようとしてくれたから、前を向けた」
「百合ちゃん……」
「だからずっと、ありがとうって言いたかったんだ」
百合ちゃんが、溢れ出る幸せを隠さずに笑う。
その笑顔を見て、違うと思った。
確かに高校生の俺は、百合ちゃんが前を向くきっかけにはなったのかもしれないけれど、今こうして彼女の笑顔を輝かせているのは、その左手の薬指で控えめに佇んでいる指輪を送った男だ。
「英瑠くんも、彼女いるんだよね」
「え……」
「さっきドア開けた時、その人だと思ったんでしょ?すごく嬉しそうだったから」
顔が熱くなった。
まさか、そんなにもだだ漏れだったのか。
「えぇっと……彼女ではないけど、好きで好きでたまらない人は、いる」
「そうなんだ」
百合ちゃんの視線が、慈しむように俺を包み込んだ。
不思議だ。
昔は目が合うだけで心臓が破裂しそうになったのに、今は鼓動がまったく乱れない。
きっと、それは百合ちゃんも同じなんだろう。
僅かに潤んだ瞳は、真っ直ぐに俺を捉えていた。
「それじゃあ、時間があるから行くね」
「あ、百合ちゃん」
「ん?」
「お幸せに」
「ありがとう。英瑠くんもね」
俺の初恋の人は、一度もこちらを振り返らずに去っていった。
その小さな背中を見送り、改めて白い封筒を見下ろす。
ああ。
どうしてだろう。
会いたい。
理人さんに会いたい。
今すぐ会って、抱きしめたい。
強く、強く、抱きしめて、キスしたい。
早く――会いたい。
ポケットからスマホを取り出し、素早く操作する。
『今どこですか?』
シュン、と短い音がして、LIMEが送信された。
「むかえにいきま……」
逸る気持ちを抑えきれず、続きのメッセージを打ち込み始めたとき、
ピヨピヨピヨ。
「す……?」
ひよこが、鳴いた。
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