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7-2:午後6時半の来訪 (10)

「佐藤くんはわかってない!」 玄関の扉が閉まると同時に、手を振り払われた。 今にも溢れてしまいそうなほど涙を溜めた瞳が、俺を睨んでくる。 「相手が女の子だったら、俺は諦めるしかないだろ……っ」 衝動だった。 「むうぅっ!」 無理やり合わせた唇は誤った角度で交わり、薄い表皮が僅かに裂ける。 「んっ……やっ……ぁっ」 微かな鉄の味を舌先で舐めとり、熱い口内をただ貪った。 「はあ……まったく、イライラする」 吐息が直接かかる距離で、理人さんの身体が震える。 「相手ってなんだよ」 「ぎゅ、って……してた」 「ぎゅ?」 「してた!」 「してませんし、もししてたとしても百合ちゃんの方からです」 「百合ちゃん……?」 「そうです。前に話しましたよね?俺の高校時代の彼女で、初めての相手」 ハジメテ。 理人さんが、うわ言のように喉の奥で反芻する。 「その子が……なんで……」 「これ、届けに来てくれただけです」 明らかに質の良い紙で作られた白い封筒を持ち上げてみせると、理人さんの瞬きが止んだ。 「結婚式の招待状です」 「それ、だけ……?」 「ほかになにがあるんですか」 「独身最後の、思い出づくりとか……」 「やめてください。百合ちゃんはそんな子じゃありません」 「あ……ご、ごめん……」 今にも消えてしまいそうな謝罪が聞こえて、初めて自分の声の冷たさに気づいた。 理人さんは、全身を小刻みに震わせながら項垂れている。 髪の下にそっと指を入れると、ヒュッと息を吸う音がした。 「俺もごめんなさい。言い方がキツかったです」 ふるふると、頭が左右に揺れる。 「今のは、俺が悪い……っ」 「まあ、そうなんですけどね」 「えっ……」 「自分は当たり前のように元彼とイチャついてるくせに、ちょっと俺が昔の恋人と話してるとこを見たからって、まるで浮気でもしたかのように責められて傷つきました」 「うっ……」 「それに、諦めるってなんですか」 「うっ、うぅっ……っ」 「理人さんの気持ちがその程度だったなんて、思いませんでした」 「だって、だって……っ」 「初恋の人と会ってもトキメかなかったくらい、俺には理人さんだけなのに」 「ごっ……ごめっ……うっ、うううぅぅ……っ」 理人さんのアーモンド・アイから、大粒の涙が零れ落ちた。 「さ、佐藤くん……っ、ご、ごめっ……怒らないで……っ」 しまった。 調子に乗りすぎた! 「ああもう!ちょっと意地悪してみただけです」 「意地悪……?」 「はい。だから、泣かないで」 イライラしたのは事実だ。 自分はいつも俺の前で堂々と木瀬さんに甘えてるくせに。 そう思ったら無性に腹が立って、だからちょっと八つ当たりした。 それだけだ。 「言いすぎました。ごめんなさい」 「お、怒ってない……?」 「はい。もう怒ってません」 「ほ、んとに……?」 「理人さん?」 「お、俺が同居に頷かなかったから、も、もう、俺のこと嫌になったんじゃないかって……」 「なんでそんなことで嫌になるんですか」 「だ、だって……」 「そもそも木瀬さんが言い出すまで同棲のことなんて頭から飛んでたし、理人さんの心の準備ができてないなら一緒になんて暮らさなくていいです。それより、この間みたいに喧嘩になる方が俺はよっぽど嫌です」 「なんだよっ、俺とは一緒に暮らしたくないのかよぉ……!?」 「え?いやだから、俺は最初から一緒に住めたらいいなって言ってるでしょ?マンションに住まわせないって断言したのは理人さんじゃないですか」 「そうだよ、同居するなんて絶対嫌だ!」 「は……?」 理人さんは、俺の上半身をぎゅうぎゅうと締め付けながら、激しく首を振った。 「なんで、一緒に住んでくれないんだよぉ……っ」 「ちょ、理人さん?」 「部屋余ってるの知ってるくせに!」 「いやあの、さっき同棲は嫌だって……」 「そうだ!でもしないのはもっと嫌だ!」 な、なんなんだ、いったい? 言葉と行動が、まったく合っていない。 わけがわからない! 「理人さん、まさか酔っ払ってます?」 「はー?俺がお酒飲めないの知ってるだろ!」 「そうですけど、なんか顔が赤い……」 ま、さか。 「理人さん、こっち見て!」 うっわ、左目の二重だけめちゃくちゃ深い! くっきりまん丸おめめになってるじゃないか! どうりで言動がおかしいと思った! 「な、なにすんだよぉ!」 理人さんの頰を挟んだ手のひらが、すぐに熱を持った。 「理人さん、熱あるじゃないですか!」 「ない!」 「いやありますって!寝ましょう!むしろタクシー呼ぶんで病院行きましょう!」 「やっ、いや!病院はいやだ!」 「嫌でも行きます!」 「やだぁ……っ」

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