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7-3:午後8時のジュ・テーム (12)
ぐううううぅぅ……っ。
甘く穏やかな空気が、唐突に響き渡った濁音に切り裂かれた。
腕の中で、じっとりと汗ばんだ身体がビクリと強張る。
「プッ」
「……ごめん」
「ムードもへったくれもないじゃないですか」
「しょうがないだろ。お腹ぺこぺこで死にそうなんだよ……」
「なんかなんだで三回もしちゃいましたからね」
途端に黙り込んでしまった理人さんの髪を梳くと、触れ合う肌の面積が広くなった。
湿気た空気の中を、お互いの呼吸と鼓動の音だけが漂う。
ついさっきまで夢中で興じていた〝激しい運動〟の間は、まるで文句を言うように軋んでいたベッドが、今はすっかり静かになり、俺たちを柔らかく受け止めてくれていた。
ふいに、下腹部に微かな振動を感じる。
理人さんの空っぽの胃が、ぐうぐうとその存在を主張していた。
「カルボナーラ、あっためましょうか」
「うん。でも……もう、ちょっと」
「……はい」
額に唇を押し付け、もう一度強く抱きしめた。
やっぱり寝室にもエアコンが欲しいな。
そう思うくらいには暑いし、もう散々飽きるほどくっついているのに、ちっとも飽きない。
それどころか、油断したらいつまでもどこまでもこのまま離れられなくなってしまいそうだ。
まるで、クリームソーダのバニラアイスに埋もれる、双子のさくらんぼみたいに。
「佐藤くん」
「はい?」
「あの箱、なに?」
理人さんが、俺の肩越しになにかを見つけ、眉をひそめた。
首をひねって確認し、ああ、と頷く。
クローゼットの前に、ひとりで抱えるのもやっとの大きな段ボール箱がみっつ、並んでいた。
「父さんと母さんからの引っ越し祝いです」
「えっ!」
「理人さんさんが帰ってくる十分くらい前に立て続けに届いて」
「まさかこれ全部?」
「真ん中のは、葉瑠兄たちから」
「えぇっ!じゃあ三つ目は……?」
「姉ちゃんたちからです」
「お父さん……内緒にしてって言ったのに!」
理人さんが、なにやら呪文のような言葉をぶつぶつと呟きはじめる。
本気で怒っちゃったかな、と心配になったけれど、時折文字になって届く言葉が、くっそ、とか、はずかしい、とか、かわいすぎる悪態ばかりで、俺の頰を緩ませた。
「なんかごめんなさい」
「え?あー……いや、うれしい」
見上げてくる理人さんの瞳が、ふと蕩ける。
これまでに見てきたどの表情とも違う、子供のようでも、大人のようでも、孫を見守るおじいさんのようでもある、淡く甘い笑み。
溢れ出る幸せに身を任せ、ただ零れるがままに零した、そんな笑顔。
ああ、そうか。
これもまた、新しい理人さんなんだ。
大切そうに俺の胸板を撫ででいた左手に、自分の手を重ねる。
理人さんの指は繊細で、とても綺麗だ。
関節は控えめで細く、爪の形も整っている。
俺は、理人さんの左手の薬指を、そっと撫でた。
「理人さん」
「ん?」
「今度の週末、指輪買いに行きませんか?」
「指輪……?」
「婚約指輪」
百合ちゃんが着けていた結婚指輪を見たとき、唐突に思った。
俺もそれがほしい、と。
左手の薬指に光る指輪。
それは、将来をともに歩んでいきたいと思えるほど愛する相手がいて、その相手も自分のことを愛してくれているという証。
これまではただの金属の輪にすぎないと思っていたそれが、急に特別なものに思えた。
理人さんの薬指を、俺の想いで縛り付けたい。
――こんやくゆびわ。
腕の中から、ぐぐもった声が聞こえた。
初めて言葉を知った子供のように、理人さんが何度も何度も繰り返している。
「派手なものじゃなくて、普通にシルバーの……あ、ゴールドでもいいですけど」」
「ゴールド……?」
「理人さん色白いから、ゴールドも似合うと思うんですよね」
「え、俺……?」
「プッ、はい。理人さんと俺の、婚約指輪です」
大丈夫?
溢れそうになる笑いを堪えつつ、目を見開いたまま固まってしまった理人さんを覗き込む。
すると、目が合った瞬間に視界が真っ暗になった。
「だ、だめだ、見るな!」
「理人さん?」
「ほんと無理だから!やっぱりやめる!」
「えぇっ!?やめるって……」
「だって同棲とか、婚約とか、指輪とか、もうっ……」
――幸せすぎて、心臓が死ぬ。
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