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終-1:午後9時の予感 (6)
バスから降りて、人の流れに乗って歩いていく。
日差しは強いけれど、夏の太陽のギラギラとした熱量とは明らかに違い、肌を照らす光はどこか優しい。
遠くから聞こえてくる蝉の声にも哀愁が漂っていて、今年も訪れた夏の終わりを暗に告げているようだった。
僅かな距離を進んだところで、俺たちの前方を歩いていた人たちが一斉にスマートフォンを構える。
いくつもの画面に映っているのは、伊勢神宮の大鳥居だ。
何度見ても、その佇まいには息を呑まされる。
まるで、その先に足を踏み入れる覚悟はあるのかと試されているようだ。
その奥に見えるのが、宇治橋。
神と人を結ぶとも言われ、広く、なだらかなアーチを悠然と描くその橋を渡れば、一気に神聖な空気に包まれる。
俺は、その瞬間が好きだった。
他愛ない日常の世界から、神の域へと足を踏み入れる。
すると、見えないなにかに吸い込まれるように、漂う空気が冷えて乾くのだ。
記憶の奥にあるその感覚を早く味わいたくて、自然と歩幅が拡がる。
大鳥居の正面に立ち、周りの人に習って浅く頭を下げたところで、ふと隣にあったはずの気配が遠ざかっていることに気づいた。
「理人さん?」
「……怖い」
「え?」
斜め後ろに佇む理人さんは、アーモンド・アイを震わせながら鳥居を見上げていた。
眉尻は垂れ下がり、上唇と下唇がお互いを巻き込み、キュッと窄まっている。
なにかに怯えていることは間違いない。
そういえば、縁日に行こうと誘ったときも、そんなことを言っていた。
「神社が怖いんですか?」
「神社とか、お寺とか、教会とか……神様仏様がいる場所、だめ、怖い」
「えっと……なんで?」
夜の神社が怖いと言われれば分かるけれど、今はまだ日も高く、それに行き交う人の数も決して少なくはない。
「見抜かれる、気がするから」
「え……」
「ちゃんと頑張ってないだろって、バレる気がする。だから、怖い」
「バレるって誰に……」
「バレたら、雷、落とされるかも」
理人さんは食い気味に言葉を紡ぎ、そして押し黙ってしまった。
陽を反射して眩しく輝く石畳の地面を揺れる瞳で見つめ、唇では急な勾配を描いている。
まるで、悪戯を叱られるのを恐れる幼い子供のように。
「理人さん」
一歩を踏み出すと、理人さんの肩が小さくいかり、俯いていた顔がゆっくりと上がった。
躊躇いがちに追いかけてきた視線が交わるのを待ち、ボディバックのストラップに手をかけ一気に引き寄せた。
「あっ……」
つんのめった身体を受け止め、腕の中に閉じ込める。
ここがどんな場所なのかも、周りに人が溢れていることも分かっていたけれど、今はただ理人さんを抱きしめていたかった。
「大丈夫」
「……」
「理人さんは頑張って生きてます」
「……そう、かな」
「はい。ちゃんとわかってますよ、神様も……ご両親も」
耳を掠めるように囁くと、背中側のシャツがキュッと締まった。
心の中が、ふわりと暖かくなる。
理人さんが、こうして不安を打ち明けてくれることが嬉しかった。
そして、その不安を俺が和らげてあげられることが嬉しかった。
引っ付いていた身体同士を少しだけ押し離し、理人さんの左手を持ち上げる。
「佐藤くん……?」
「こうすれば怖くないでしょ?」
「……」
「行きましょう」
「……ん」
指と指の間の乾いた隙間が、しっとりとした熱で埋まる。
俺は鳥居を見上げ、祈った。
どうか、優しく理人さんを迎えてあげてください――と。
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