414 / 492

終-1:午後9時の予感 (6)

バスから降りて、人の流れに乗って歩いていく。 日差しは強いけれど、夏の太陽のギラギラとした熱量とは明らかに違い、肌を照らす光はどこか優しい。 遠くから聞こえてくる蝉の声にも哀愁が漂っていて、今年も訪れた夏の終わりを暗に告げているようだった。 僅かな距離を進んだところで、俺たちの前方を歩いていた人たちが一斉にスマートフォンを構える。 いくつもの画面に映っているのは、伊勢神宮の大鳥居だ。 何度見ても、その佇まいには息を呑まされる。 まるで、その先に足を踏み入れる覚悟はあるのかと試されているようだ。 その奥に見えるのが、宇治橋。 神と人を結ぶとも言われ、広く、なだらかなアーチを悠然と描くその橋を渡れば、一気に神聖な空気に包まれる。 俺は、その瞬間が好きだった。 他愛ない日常の世界から、神の域へと足を踏み入れる。 すると、見えないなにかに吸い込まれるように、漂う空気が冷えて乾くのだ。 記憶の奥にあるその感覚を早く味わいたくて、自然と歩幅が拡がる。 大鳥居の正面に立ち、周りの人に習って浅く頭を下げたところで、ふと隣にあったはずの気配が遠ざかっていることに気づいた。 「理人さん?」 「……怖い」 「え?」 斜め後ろに佇む理人さんは、アーモンド・アイを震わせながら鳥居を見上げていた。 眉尻は垂れ下がり、上唇と下唇がお互いを巻き込み、キュッと窄まっている。 なにかに怯えていることは間違いない。 そういえば、縁日に行こうと誘ったときも、そんなことを言っていた。 「神社が怖いんですか?」 「神社とか、お寺とか、教会とか……神様仏様がいる場所、だめ、怖い」 「えっと……なんで?」 夜の神社が怖いと言われれば分かるけれど、今はまだ日も高く、それに行き交う人の数も決して少なくはない。 「見抜かれる、気がするから」 「え……」 「ちゃんと頑張ってないだろって、バレる気がする。だから、怖い」 「バレるって誰に……」 「バレたら、雷、落とされるかも」 理人さんは食い気味に言葉を紡ぎ、そして押し黙ってしまった。 陽を反射して眩しく輝く石畳の地面を揺れる瞳で見つめ、唇では急な勾配を描いている。 まるで、悪戯を叱られるのを恐れる幼い子供のように。 「理人さん」 一歩を踏み出すと、理人さんの肩が小さくいかり、俯いていた顔がゆっくりと上がった。 躊躇いがちに追いかけてきた視線が交わるのを待ち、ボディバックのストラップに手をかけ一気に引き寄せた。 「あっ……」 つんのめった身体を受け止め、腕の中に閉じ込める。 ここがどんな場所なのかも、周りに人が溢れていることも分かっていたけれど、今はただ理人さんを抱きしめていたかった。 「大丈夫」 「……」 「理人さんは頑張って生きてます」 「……そう、かな」 「はい。ちゃんとわかってますよ、神様も……ご両親も」 耳を掠めるように囁くと、背中側のシャツがキュッと締まった。 心の中が、ふわりと暖かくなる。 理人さんが、こうして不安を打ち明けてくれることが嬉しかった。 そして、その不安を俺が和らげてあげられることが嬉しかった。 引っ付いていた身体同士を少しだけ押し離し、理人さんの左手を持ち上げる。 「佐藤くん……?」 「こうすれば怖くないでしょ?」 「……」 「行きましょう」 「……ん」 指と指の間の乾いた隙間が、しっとりとした熱で埋まる。 俺は鳥居を見上げ、祈った。 どうか、優しく理人さんを迎えてあげてください――と。

ともだちにシェアしよう!