418 / 492

終-1:午後9時の予感 (10)

「おかえりなさいませ」 女将さんの柔らかな笑顔に迎えられ旅館にチェックインする頃には、俺たちの両手はお土産の袋でいっぱいになっていた。 赤福は賞味期限の関係で諦めたけれど、地酒や醤油、招き猫などガイドブックであらかじめリストアップしてあったお店はほとんど全部回ることができた。 まだ初日だからとけっこうセーブしたのに、それでも浮かれすぎている感じはやっぱり否めない。 「お食事は大広間でもお召し上がりいただけますが、お部屋にご用意させていただいてよろしいでしょうか?」 「はい。それでお願いします」 「かしこまりました。こちらにご記入をお願いします」 宿泊者情報を記入しながら隣を伺うと、理人さんの頭が上下左右に行ったり来たりしている。 ほんのり日焼けした鼻の頭がつやつやと光っていてかわいい。 「こちらがお部屋の鍵でございます。ごゆっくりおくつろぎくださいませ」 「ありがとうございます」 鍵と一緒に預かってもらっていた荷物も受け取り、エレベーターで今夜の部屋へと向かう。 露天風呂付きだからさぞ豪華絢爛な部屋なのではと構えたけれど、意外にもシンプルな和室だった。 それでもふたりで大はしゃぎしても余ってしまいそうなくらい広い。 枕投げも余裕でできそうだ。 さすがにしないとは思うけれど。 理人さんは手近な畳の上に荷物を放り出すと、早速探検に繰り出した。 真ん中の襖を開け閉めしたり、トイレを覗いたり、障子を開けてベランダに顔を出してみたり、とにかくあちこち縦横無尽に動き回っている。 俺はこっそり笑ってから、ボディバッグを下ろした。 「佐藤くん!」 押入れに頭を突っ込んでいた理人さんが、俺を手招きする。 「どうしたんですか?」 「浴衣選べるみたい」 「浴衣?」 「紺色と赤と緑と……あ、黄色もあるな。どれがいい?」 「うーん……紺、ですかね」 「じゃあ俺も紺色にする」 「お揃い?」 「うん。だめ……?」 「だめじゃないですけど……って、ちょっと、理人さん?」 俺の言葉に満足そうに頰を持ち上げると、理人さんはいきなり服を脱ぎ始めた。 「くつろぎたいし着替える。佐藤くんも、はい」 「あ、ああ、ありがとうございます」 ……じゃなくて! この人は、本当にわかってないんだろうか。 自分が今、どんな状況なのか。 汗でしなった髪。 桜色に染まった頰。 いつになく赤味の増した唇。 長い指がズボンに添えられ、一気にベルトが引き抜かれる。 ゆっくりとボタンを外す左手の薬指に光る指輪が、電気を反射してキラリと光り――…… ああ、もう、だからさあ! まだ早い、まだ早い……と唱えながら視線をずらすと、床の間の時計が目に入った。 金色に光る置き時計はいかにも重厚そうで、殺人の鈍器になりそうだ。 場所が場所だけに、つい、湯けむり殺人事件……なんて物騒なことを連想してしまう。 でもそのおかげで、下半身が落ち着きを取り戻してきた。 「夕飯までまだ一時間くらいありますね。どうしますか?」 「そんなの決まってるだろ」 「えっ」 理人さんは黒い浴衣に腕を通しながら、得意げに言った。 「大浴場!」 そうだとは思ったけど……思ったけども!

ともだちにシェアしよう!