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終-2:午後0時の祈り (1)
次の日は、とても暑かった。
東海地方を直撃するはずだった台風の進路が変わり、東に逸れた。
その影響が、残暑と称するには生ぬるいほどの気温の上昇となって現れたのだ。
地下はそれでも日差しが遮られる分まだマシだったけれど、地上に出て数メートル歩いただけで、鼻の頭から玉のような汗が吹き出してくる。
行き交う人たちは一様に顔をしかめ、信号を待つ人たちは少ない日陰に身を寄せ、直射日光からなんとか逃れていた。
「あ、佐藤くん」
「宮下さん、おはようございます」
「おはよう……あ、おかえり、だね」
「ただいま」
ひと足先に休憩室でくつろいでいた宮下さんは、暑いね、と苦笑し、ウォーターサーバーから水を注いでくれた。
小さな紙コップを受け取り、乾き切った喉を潤す。
身体の中から冷たい心地よさが広がると、全身を覆っていた不愉快な粘つきが少しずつ引いていった。
「旅行どうだった?」
「楽しかったです。これ、お土産」
「いいの?ありがとう!」
小さな紙袋の中を覗き込み、宮下さんが目を輝かせる。
「あっ、かわいい!」
宮下さんの手のひらに乗っているのは、おかげ横丁で見つけた松阪木綿の小銭入れ。
天然の藍色のグラデーションがとても綺麗な上、がま口の丸く膨らんだフォルムは可愛らしく、店員さんも女性に人気のアイテムだと言っていた。
「こういうの好き」
「よかった。それ、理人さんが選んだんですよ」
「えっ、そ、そうなの?」
「俺はバレッタがいいかなって思ったんですけど、身につけるものはなんか嫌だ……って拗ねられちゃって」
「な、なんなのその最早さりげなくもない堂々とした惚気は!」
しかもモノマネが似てない!と大袈裟に憤慨してから、宮下さんは表情を和らげる。
「ほんとに嬉しい。ありがとうね」
「俺の方こそ、公休ありがとうございました」
「どういたしまして。そういえば、神崎さんは一緒じゃないの?」
宮下さんが、ふと壁の時計を見上げた。
いつもなら理人さんが朝のコーヒーを買いにきている時間だ。
「朝一ミーティングが入って、今朝は先に出ちゃったんですよ」
「そうなんだ。お昼は来る?」
「と思います。火曜日だけど久しぶりにカルボナーラ食べたいって言ってたから」
「じゃあ、これのお礼はお昼に伝えようっと」
宮下さんは、紙袋を大切そうにロッカーにしまった。
すべてがいつも通り……いや、いつも以上にいつも通りだった。
だから俺は、気がつかなかった。
その〝当たり前の日常〟が綻び始めていたことに。
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