438 / 492

終-2:午後0時の祈り (10)

コーヒーの味がわからない。 柔らかすぎるカップはとても不安定で、うまく指に力を込めることができなかった。 歪んだ水面で、小さな氷の粒がせめぎ合う。 砂糖もクリームも一切入っていないブラックコーヒー。 啜ったひと口分を舌の上で転がしても、なんの苦味も感じなかった。 鼻を鳴らしてみても、芳ばしい香りはどこにもない。 それでも乾き過ぎた咽喉が痛くて、茶色い液体を無理やり流し込んだ。 「……怪しい数字の動きを見つけたんだ」 木瀬さんが、ポツリと言った。 「最初に気づいたのは渋谷だった。単純なミスで済ませられるくらいのほんの僅かな差異だったから、修正に必要な書類を作って処理した。でも、すぐにそんな案件があちこちに転がってるのが分かって……ふたりで調べていくうちに、その〝ミス〟の金額がだんだん大きくなっていることに気づいたんだ」 「横領してた、ってことですか……?」 「簡単に言うとな。でもあいつは……長谷部が手を出してたのは、それだけじゃない」 ぐしゃり、と紙が潰れる音がする。 「他人の印鑑の不正使用、契約書類の偽造、経費の虚偽申請……挙げたらキリがない。一番問題だったのは、金を受け取る見返りに、入札が有利になるよう特定の事業者に機密事項をリークしてたってことだ」 「賄賂……?」 「ネオ株(うち)が扱う案件は、時には何十億って金が動く大規模なものもある。たとえ賄賂に数百万払うことになったとしても、案件に関わりたいって業者は多いんだよ」 曖昧な相槌を打って、でもほとんど理解できていなかった。 木瀬さんの話には、まるで現実味がないのだ。 だってこんなの、まるで―― 「しばらくの間、渋谷と証拠集めに奔走してた。先週やっと十分なネタが揃って……だから……」 「理人さんは……」 「なにも話してない。言ったら反対されると思ったから」 「なんで反対……」 「理人は俺が通報する前に、長谷部に猶予を与えて自白するように訴えたはずだ。あいつはそういう奴だろ」 「……はい」 「だからわざと理人が休みの日を狙ってコンプラ窓口に証拠を提出したんだ。理人に止められて動けなくなる前に、って、そう、思って……っ」 「木瀬さん……?」 木瀬さんの口元が歪み、カチカチと歯が鳴った。 「すぐに総務と人事に報告が上がって、その時点で確実に言い逃れさせないくらいの証拠は揃ってたし、あとは正式な内部調査で裏づけるだけだ、って……。長谷部は社員証を没収されて、とりあえずは無期限の自宅謹慎って形になって、もちろん告げ口の犯人探しはするだろうとは思ったよ。だけど……」 潰れた紙コップを挟み込んだ両手が、小刻みに揺れる。 「まさか理人が疑われて、しかもこんなことになるなんて……!」 震えたまま、指が頭を掻きむしった。 「理人は俺のせいでっ……」 「違う!」 木瀬さんの濡れた瞳が、俺を見つめる。 「違います!木瀬さんは正しいことをしただけです!」 「……」 「木瀬さんは……悪くない」 「……」 「木瀬さんのせいじゃありません……!」 「佐藤くん……」 「……」 「……」 「理人さんなら……」 「……」 「あの人ならきっと、そう、言うと思います」 「……そうだな」 ごめん。 ありがとう。 くぐもった吐息がふたつの言葉を(かたど)り、やがてそれは静かな嗚咽へと変わった。

ともだちにシェアしよう!