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終-2:午後0時の祈り (12)

その動画には、色がなかった。 画面いっぱいに広がっているのは、ただの闇。 まるでペンキを厚塗りしたような黒一色だけだ。 耳を澄ましてみても、なんの音も聞こえてこない。 ただ右下に小さく表示された数字が、一秒ごとに確実に減っていっていた。 シン……と不気味な静寂に包み込まれ、唾を飲み込むタイミングすらわからなくなる。 理人さんはいったいなにを『撮った』んだろう。 まさか、遺言? 自分の最期を悟って、俺たちにメッセージを? そんな不吉なことばかりが、胸を過ぎっては消えていく。 「なんだこれ?ただの押し間違い……」 「しっ!」 『……ぁっ……ぅ……』 ふいに無音だったスマートフォンから音が聞こえ、俺たちは同時に息を止めた。 まるで腹を探り合うようにお互いを見やる。 すると、くぐもったノイズのようだった音がいきなりクリアになった。 『……からっ、俺じゃありません!人違いです!』 『しらばっくれるな!お前以外に誰がいる!』 『知りませんよ、そんなの!』 ああ、 この声は、 理人さんだ。 込み上げてくる涙を飲み込み、全神経を聴覚に集中させる。 『長谷部部長、今ならまだ遅くありません。告白してください!部長が自首するなら、俺も証言します!』 『証言……?』 『あなたが犯した罪は消えません。でも、これまでずっと会社に貢献してきた事実も消えないはずです!だからっ……』 『うるせぇ!』 『あっ……』 動画の背景で物騒な音がする。 ガタガタとなにかが激しく乱れ合う音が聞こえ、やがてそれはピタリと止んだ。 『なんのつもりですか!こんなことしたってなにも変わらないでしょう。今すぐこれを解いてください!』 『……』 『部長!』 『……若いお前には分からねぇんだろうなあ』 『え……?』 『三十五年だ。人生の半分以上を会社に捧げてきた。家庭と仕事を天秤にかけたことだって何度もある。でもそれが男の生き方ってもんだろう?責任ってもんだろう?それなのに、家に帰れば女房には甲斐性がねぇだの、役立たずだの罵られて、娘たちは話しかけても返事すらしねぇ。俺がどれだけ身を粉にして働いてきたのか知りもしねぇで……誰のおかげで贅沢な暮らしができるのか知りもしねぇくせによ!』 『……』 『それでも仕事が上手くいってりゃ気も紛れたさ。それが……最近の若い奴らはゆとりだかなんだか知らねぇが、ちょっと注意しただけでパワハラだなんだと大騒ぎしやがる!減給?降格?この俺が!?ふざけんな!俺が……俺が今までどれだけっ……』 『……』 『……だからここらで一旗揚げてやろうと思ったんだよ。そこらに有り余ってる金をほんの少し頂戴しただけだ。それのなにが悪いってんだ?』 唐突に、チャプン、と水の跳ねる場違いな音が混じる。 『な、んであなたがそれを……』 『なんでだと思う?』 『それは奥様が社長の還暦祝いにプレゼントしたお酒でしょう。社長室のガラスケースに飾られてたはずだ!鍵をかけて!』 『知ってるか?神崎。ネオ株(うち)の社長夫人はとんだアバズレなんだよ。自分の夫が汗水垂らして稼いだ金でセレブ生活を満喫しながら、それだけじゃ飽き足らず、金を払って男に抱かれてる。夜の社長室、デスクの上で犯されるのが一番興奮するんだとよ』 『あ、あんた、そんなことまでしてたのかよ……!』 物音が激しくなり、理人さんのうめき声が響く。 『く、くそっ、これ外せよ!今すぐ!』 『お前、酒が飲めないなんて嘘なんだろう?いつも俺の誘いを断りやがって』 『いっ……!』 ガタンッとなにかが倒れる音がした。 『東大主席卒業?史上最年少で課長昇進?前から気に入らなかったんだよ!』 『ぶ、部長……』 『道連れにしてやる』 『なっ……?』 『就業時間中に酒に酔った姿を見たら、誰もお前の言うことなんて信じねぇよ。他のことも共犯だと思うだろうなあ?』 『や、やめっ……ん、ぐっ!』 とぷとぷと液体が流れる音が断続的に聞こえ、 『あっ……かはっ……うえ、おえっ……!』 理人さんが嘔吐(えず)く声と混じり合う。 『あ、はっ……んんっ、ぐっ!』 『吐くんじゃねぇよ、俺の酒が飲めねぇってのか!』 『がはっ……も、や、やめっ……』 『神崎課長!』 バンッとなにかがぶつかり合う音に続いて、渋谷さんの叫び声が乱入した。 『長谷部てめえ……!』 『木瀬課長、落ち着いてください!手は出しちゃだめです!とにかく救急車――…』 動画はそこで終わっていた。 暗かった画面に明かりが戻り、目が眩んで一瞬なにも見えなくなる。 久しぶりに瞬きした瞳が痛んだ。 誰も、なにも言わなかった。 俺も、 木瀬さんも、 三枝さんも。 誰が想像しただろう。 まさか、 こんなことになっていたなんて。 やがて、誰かの喉がヒュッと鳴った。 スマートフォンが畳を叩く鈍い音がする。 「あんの、やろう……!」 小刻みに振動する三枝さんの声がこぼれ、落ちた。

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