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終-2:午後0時の祈り (17)

「こら!ここをどこだと思ってるの。廊下は走らない!」 「はいっ、すみません!」 バタバタと床を蹴り散らしていた足を急停止させ、看護師さんに深く会釈した。 呆れたような視線を真摯に受け止めてから、再び歩き始める。 不自然な早歩きになったせいで、靴底が擦れキュキュッと鳴いた。 理人さんが三日間の集中治療を終え、一般病棟へと移って今日で早10日。 桐嶋先生も驚くほどの回復スピードで、身体のあちこちから伸びていた管はどんどん減っていき、あっという間に点滴の細い管一本を残すだけになった。 心配された脳や臓器への後遺症も、今のところ見つかっていない。 はやる気持ちを抑えながら、白い空間の最奥を目指す。 理人さんの病室は、長い廊下の一番奥にある個室だ。 容態が安定するなり、会社からはもちろん、警察からも事業聴取を受けたり、社長が直々にお見舞いに来たり、長谷部の奥さんが謝罪に来たり……緊迫した雰囲気に包まれることも多かったから、わざと大部屋が避けられたんだと思う。 「……家に帰りたい」 昨日の夜、面会時間が終わる直前に理人さんがぽつりと言った。 事件のことを何度も話さなければいけないストレスと、たたでさえ注射が嫌いなのに毎日何回も針を刺されるストレスと、ずっと流動食しか口にできなかったストレスが溜まってたんだと思う。 理人さんの気持ちは痛いくらいよく分かって、でも俺はただ抱きしめることができなかった。 それでも、今日は待ちに待った普通食の解禁日。 だから俺は、仕事が終わると同時に店を飛び出し、ダッシュでここに来た。 左手に提げた白いビニール袋には、アレが入っている。 そう。 理人さんがもしかしたらかもしれない、アレが。 コンコン。 いつもと同じように、二度ノックしてから病室の扉をスライドさせる――と、 「いい加減観念したまえ、神崎理人君」 「いやだっ!」 「なあに、痛みは一瞬だ。すぐにクセになるさ」 「な、なるわけないでしょう!」 「本当に強情だな、君は。まあ、嫌がる君を組み敷いて無理やり……なんていうのも唆るがね?」 「やっ……やだ、触るな!離しっ……」 シャッと勢いをつけてカーテンを開けると、白衣姿の男とパジャマ姿の男が、同時に俺を振り返った。 白衣を着た男――桐嶋先生の手には、採血用の注射針が握られている。 そしてこちらも案の定というか予想通りというか、パジャマを着た男――理人さんは、ベッドの端まで追い詰められ、膝を抱えて縮こまっていた。 「おお、英瑠君、ちょうどいいところに」 「あ!佐藤くんおかえり!」 「ただいま……じゃなくて。またですか、理人さん」 蕾が花開いたように輝いていた笑顔が、一気に萎む。 への字にひん曲がった唇がなにかを言いかけて、でもまたすぐに閉じられた。 「桐嶋先生も、無駄に怖がらせるのやめてください」 「あ、マッドサイエンティストっぽい雰囲気出てた?」 手に物騒なものを持ちながら、桐嶋先生が嬉しそうに笑う。 「チクっとするのは一瞬だってどれだけ優しく言っても全っ然効果ないしさあ」 「い、一瞬でもいやだ……!」 「その気持ちを否定するつもりはないけど、こう見えて僕もけっこう忙しいんだよ?」 ジリジリと忍び寄る桐嶋先生に押されるように、理人さんはベッドの上をずりずりと後ずさっていく。 でもすぐに背中が壁にぶち当たり、全身を硬直させた。 「はい、行き止まり。もう逃げられないね……?」 桐嶋先生は、くくくくっと喉の奥で怪しく笑い、また理人さんを煽っている。 黄ばんだ白衣と無精髭が良い効果を発揮しているとは思う……けれど。 俺はため息を吐き、ベッドの隅で縮こまる理人さんを見つめた。 「理人さん、まさかこのままずっと入院するつもりなんですか」 「そ、そんなの嫌だ!」 「じゃあちゃんと検査してもらいましょう」 靴を脱いでベッドに上がると、理人さんの顔からサッと血の気が引く。 「く、来るな!来るな来るな来るなぁ……!」 「はい、捕まえた」 「さ、佐藤くんの裏切り者……!」 じたばたする細い身体を抱き込み、一気に体勢を反転させた。 上半身をジェットコースターの安全バーのように羽交い締めにし、長い脚は自分の足を絡ませて押さえつける。 さすがに一週間以上毎日繰り返しているからか、自分でも驚くほどすんなりできるようになった。 理人さんは全身の筋肉を駆使して抵抗するけれど、腕が腫れて足の甲から採血することになったあの日の暴れっぷりに比べれば、こんなのは屁のカッパだ。 ああ。 なんだかものすごく変な上に、まったく汎用性のない特技を身につけてしまった気がする……。 「はーい、じゃあ絶対に動かないでねー」 「あっ……やっ、いやだっ……待っ……ん、んんぅっ!」 念のため言っておくと、理人さんは本当にただ普通に採血されているだけだ。 そりゃあ涙目で喘ぐ理人さんはかわいいけれど、正直、ものすごくめんどくさい。 「よーし、OK!」 桐嶋先生は、たっぷりと採り溜めた理人さんの赤黒い血液を恍惚と眺めてから去っていった。 また明日な、と不気味に微笑み、きっちりと理人さんを震え上がらせてから。 忙しい忙しいとぼやきながらこうして自ら採血にやってくるのも、理人さんの反応を楽しむことが目的な気がする。 マッドサイエンティストっていうのも、あながち間違いじゃないのかも。

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