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終-3:午前10時の旅立ち (8)

なにかが焦げるにおいがする。 「ん……」 ふ、と浮上した意識の向こうで、金属と金属がぶつかり合う音がした。 手探りでスマートフォンを探し出し、その重い機体を目の前にかざす。 ホームボタンを押すと、地平線のようにうっすらと広がる視界が白く眩んだ。 乾いた瞳を瞬きで潤し、痛む目の焦点をなんとか合わせる。 時刻は、朝の五時半。 辺りはまだ濃い闇に包まれている。 静かだ。 寝返りを打つと、身体がだるい。 朝の冷たく湿った風を切りながらのジョギングは最高だけれど、どうも今朝はやる気が湧いてこない。 いいや、決めた。 理人さんが起きるまで、俺も二度寝しよう。 隣に眠る細い身体を抱き込もうと腕を伸ばして、違和感に気がついた。 理人さんが、いない。 「理人さん!?」 ライフルの弾丸も顔負けの勢いで飛び出した俺を迎えたのは、意外にも理人さん本人だった。 二、三度素早く瞬きし、でもすぐに表情を和らげる。 「早いな、おはよ」 「おはよう、ございます……」 穏やかな笑みをうかべる理人さんは、父さんたちから贈られたエプロンを身につけていた。 俺のと色違いの、黄緑と黄色のチェック。 その下には、まだトフィのパジャマを着たままだ。 「なに、やってるんですか」 「朝ごはん。目が覚めたからたまには俺が、と思って」 煌々と灯りの輝くキッチンから、薄暗いダイニングスペースへと理人さんがゆっくり歩み出てくる。 その手には、シリコン製の黒いフライ返しが握られていた。 「ブレックファスト・イン・ベッドってやつ、やってみたかったのに。あっさりバレちゃったな」 ふにゃりと蕩けたアーモンド・アイの輪郭が、濃い。 「理人さん、ちゃんと寝ました?」 「寝たよ」 「何時に起きたんですか?」 「うーん、三十分くらい前かな?」 まただ。 また、 理人さんが俺を見ない。 「ちゃんと俺の目を見て言ってください」 「だから、心配しすぎだって」 「するに決まってます。だって理人さんが俺のアラームより先に起きて、しかも朝ごはんなんて作ってるんですよ?」 「そこは心配じゃなくてムラッとするとこだろ」 冗談ぽく笑った瞳がようやく俺の姿を捉え、でもすぐにその色を変えた。 これっぽっちも笑っていない俺から視線を逸らし、尖った唇をもそもそと動かす。 「ちょっと夢見が悪くて、一回目が覚めたら寝付けなくなったんだよ」 「夢?どんな?」 「あー……覚えてない」 フライ返しを持ったままの左手が、乱れた髪をかき乱す。 その拍子に、先の方に残っていた卵の欠片が飛び散った。 「佐藤くん、ジョギングは?」 「今日は行きません」 「それなら、教えて。美味しいオムレツの作り方」 「オムレツ?」 「もう二回失敗してるんだ。どうしてもスクランブルエッグから抜け出せない」 「……」 「なんでかな?」 なぜだろう。 小首を傾げる理人さんはかわいい。 かわいい――はずなのに、 そんな理人さんを見るのは、 まるで心臓を鷲掴みされているかのように、 苦しい。

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