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終-3:午前10時の旅立ち (9)

「理人さん、どれにしますか?」 「テレビでやってた限定の……」 「あ、これですね」 「うん!」 土曜日の午後、俺たちはサーティースリーアイスクリームに来ていた。 向かいの大通りを忙しなく行き交う人の群れを眺めていると、ブーツや薄手のストールを身につけている姿が多いことに気づく。 昼間の日差しはまだ暖かいけれど、朝晩は急に冷え込むようになった。 週末でそれなりに混んでいるとは言え、ピークシーズンを過ぎた今、店内の人口密度は夏の暑い盛りとは雲泥の差だ。 それでも圧倒的女子率を誇る待機列にアラサー男子がふたり一緒に紛れるのは、なんとなく気恥ずかしい。 隣を見ると、理人さんは「お待ちの間ごらんください」と店員に渡されたメニューに釘付けになっていた。 久しぶりに無邪気な横顔が見られて、ほんの少しホッとする。 理人さんは、あれから一度も倒れていない。 何事もなかったかのように出勤し、普通に仕事をこなし、また何事もなかったかのように退社する日々。 ネオ株の人たちの中には、あの事件を〝もう終わったこと〟と捉えている人も多いだろう。 「神崎課長が元気になって良かったね」 そんな言葉を耳にすることもよくあったし、実際、理人さんは元気だ――ものすごく。 毎朝目覚まし時計のアラームより先に起き出し、一生懸命ふたり分の朝ごはんを作り、俺に振る舞ってくれる。 時には、夕飯をひとりで作ってしまうこともあった。 お風呂も絶対に俺と一緒に入るし、出たあとだって――とにかく、理人さんは〝元気〟だ。 それでいて、日に日に濃くなるアーモンド・アイの輪郭が、それが本当のの姿ではないことを暗に示していた。 理人さんは、元気にだけなのだ。 でも、当の理人さんは頑なにそれを否定する。 俺がどれだけ訊いても、時に本気で問い詰めても、絶対に 認めようとしない。 返ってくる言葉はいつだって、 ――心配しすぎ。 それが真実なら俺もおとなしく受け入れたい。 けれど、根拠も実態もない漠然とした不安ばかりが、拭い切れないまま俺の中でどんどん大きくなっていく。 〝元気〟な理人さんを見るたびに感じる息苦しさも、比例するようにどんどん酷くなっていた。 まるで、サラサラと崩れ落ちていく砂の城に閉じ込められているような。 今俺たちを包んでいるのは、〝危うさ〟だ。 ひとつでもなにかを間違えれば、一瞬で崩れ落ちてしまう砂城の底に俺たちはいる。 そしてその間違えてはいけない『なにか』が一体なんなのか、俺にはわからない。 だから、 怖い。 「お待たせいたしました。お決まりでしたらどうぞ」 いつのまにか俺たちの番になっていた。 スキップするように飛び跳ねながら、理人さんが冷えたガラスに貼りつく。 俺はじっとりと湿っていた手を無理矢理開き、アイスクリームケースの奥の一点を指差した。 「この期間限定のをバニラとダブルで、ふたつください」 「かしこまりま……」 「あ、ひとつはシングルでいいです」 「えっ?」 「あんまりお腹減ってないんだ」 理人さんは、寂しげに微笑った。

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