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終-3:午前10時の旅立ち (13)
「はい」
「ありがとうございます」
靴べらを受け取り、黒い革靴に足を滑り込ませた。
上半身を屈めると、垂れた髪が頬をくすぐる。
トントンと爪先で床を叩くと、理人さんの重い視線も一緒に上下した。
今朝も、理人さんはアラームよりも早く覚醒した。
最近は俺も敏感になり、理人さんがベッドから抜け出す振動で目が覚めるようになった。
理人さんは転がり落ちるようにベッドを抜け出すと、キッチンに向かい、一番奥の電気だけを点ける。
そして水道水を小さめのグラスいっぱいに注ぎ、それを時間をかけてゆっくりと飲み干す。
空いたグラスをシンクに沈めると、リビングを横切り、ベランダへと続く窓を自分の身体の厚み分だけスライドさせ、そっと身体を滑り込ませた。
夜明け前の空は、暗く、近い。
見下ろした彼方の世界にはぽつぽつとまだらな灯りが見え、そこに人の生活があることを実感させる。
黄色や白の小さな揺らめきは、まるで暗い海の底へと誘 うようにこちらを見上げていた。
冷たい空気にも身震いひとつせず、理人さんは眼の前に広がる闇をただ見つめる。
そしてしばらくすると、ふと思いついたように中に戻り、朝食の準備を始めるのだ。
「今日のオムレツは成功でしたね」
「そうか?やっぱり形をこう……その……」
「小判型?」
「そう、小判型!」
「プッ」
「……に、ちゃんとしたいんだけど」
「じゃあ、今夜はオムレツにしましょうか」
「えっ」
「お手本に。どう?」
「……うん」
役目を果たした靴べらを下駄箱に引っかけ、代わりにタキシードの入ったガーメントバッグを持ち上げる。
「5時には帰れると思います」
「ん、待ってる」
理人さんは、穏やかに笑んだ。
わずかに眉尻が下がり、同じ角度で目尻が垂れる。
綺麗なアーモンド型だったふたつの目が、緩やかなアーチを描いた。
薄い唇は上と下がぴったりとくっつき、口角が上がる。
呼応して頰の筋肉が持ち上がり、生まれた凹凸に薄い影が塗りこまれた。
出会った時に何度も見た、理人さんの淡い笑み。
向けられるたびに、条件反射のように鼓動が逸ったのを覚えている。
今日の笑顔も、あの時と同じ?
いや……、
違う。
「どうした?」
「やっぱり、今日のバイトキャンセルします」
「は?なんで……?」
「理人さん、今自分がどんな表情 してるかわかってる?」
「え……?」
「泣きそうな顔してる」
理人さんの視線が、右へ左へと忙しなく泳いだ。
「今日は俺ひとりじゃないし、休めますから」
「そ、そんなの迷惑だろ。いいから行けよ」
「行きません」
「えっ……」
「理人さんが行くなって言うなら、俺は行きません」
理人さんの喉仏が、ゆっくりと上下した。
薄い唇が小刻みに痙攣し、徐々に開いていく。
頼むから。
お願いだから。
行くなって言って。
寂しいって。
苦しいって。
助けてって言って、
俺に、縋りついて。
「……い」
ふたつのアーモンド・アイが、醜く歪んだ。
「行ってらっしゃい」
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