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終-3:午前10時の旅立ち (14)
「佐藤君、交替するから休憩入って」
「ありがとうございます」
厨房を通り抜けて『スタッフ控え室』に入ると、香ばしい空気が出迎えてくれた。
部屋の中心にあるテーブルに、上品な平皿がいくつも並んでいる。
そのひとつひとつに、ガレットが盛り付けられていた。
ガレットはそば粉で作られたクレープで、フランス北西部のブルターニュ地方の郷土料理だそうだ。
このフレンチレストランでのバイトは三回目になるけれど、毎回まかないが美味しくてつい堪能してしまう。
朝食が早かったのに加え、数時間ピアノを弾き続けた身体はもう空っぽで、ラップの下で鮮やかな橙色に艶めく卵黄が目に入った瞬間、腹の虫が鳴いた。
「いただきます」
少し冷めてしまっているけれど、口の中でとろりと溶け出す黄身はほんのりと甘く、疲れた身体を優しく癒してくれる。
そうだ、写真を撮って理人さんに自慢しよう。
もしかしたら、今夜のメニューがオムレツからガレットに変更になるかもしれない。
そば粉を求めてスーパーに走ることになるかもしれないけれど、理人さんが楽しく食事をしてくれるなら、それくらいの苦労はむしろ大歓迎だ。
最近の理人さんは、あまり食欲がない。
毎日食べたいメニューはあって、一緒に作る間はそれなりに楽しそうで、でもいざ食卓につくと半分くらいで箸が止まってしまう。
それだけじゃない。
あんなに崇拝していたアイスクリームでさえ、手を伸ばす頻度が減った。
――いってらっしゃい。
今朝見送られたときの泣き笑いのような表情が、脳裏に浮かぶ。
俺は、スマートフォンに手を伸ばした。
理人さんからの連絡はなにも入っていない。
LIMEも。
電話も。
もしかして、二度寝しているんだろうか。
それだけならいい。
でも、
もしも、
ひとりで、泣いていたら――?
「うわっ!」
突然手の中のスマホがぶるぶると激しく振動し始め、思わず取り落としそうになる。
ドクドクと不自然な鼓動を打つ心臓をシャツの上から撫でつけ、忙しなく光る画面を見た。
『三枝さん』
表示されていた名前とアイコンを確認し、目を見張る。
あのとき病院で連絡先を交換してはいたけれど、こうして実際に電話がかかってくるのは初めてだった。
嫌な予感がする。
「もしもし……?」
『あ、佐藤くん?俺、三枝』
「お疲れ様です」
『お疲れ。ごめんな、日曜に』
「いえ、それは別に……どうしたんですか?」
『あいつに変わって』
「理人さん……ですか?」
『何度かけても綱がらないんだよ。LIMEは既読つくから、完全に居留守使われてる』
「ごめんなさい。俺、今日バイトで外に出てて……」
『……』
「三枝さん……?」
『佐藤くん、神崎からなにも聞いてねぇ?』
「な、にをですか」
『実は今日――…』
ああ。
だめだ。
もう、
待っているだけなんてできない。
「三枝さん」
『ん?』
「今夜、時間ありますか?」
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