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終-3:午前10時の旅立ち (15)
午後七時。
玄関の扉がゆっくりと開いた。
止まっていた空気が流れ出すと同時に、隙間をこじ開けるように細い身体が滑り込んでくる。
「理人さん」
黒に包まれた全身が、びくんと跳ねた。
恐る恐る持ち上がった視線が俺の姿を捉えると、強張っていた筋肉がスッと弛緩する。
そして、口元が曖昧に笑った。
「びっ……くりした。帰ってたのか、早いな」
「早い?もう7時ですよ」
「え、あ……もうそんな時間?」
「ずっとLIMEしてたんですよ?電話も」
「え?あー……ほんとだ、ごめん」
理人さんはポケットからスマホを取り出し、気まずそうに下唇を噛んだ。
まさか、本当に気付いていなかったのだろうか。
日がどんどん短くなる季節。
太陽はとっくに姿を隠し、外はもう真っ暗闇だというのに。
「心配だったんで探しに行こうとしてたところでした」
「ちょっと遅くなっただけだろ。心配しすぎだって」
「どこ、行ってたんですか」
「本屋」
「それだけ?」
「うん」
法廷で証拠を示す検察官のように、理人さんが小さな紙袋を散らつかせる。
「なんの本買ったんですか?」
「ちょっとな」
「ちょっとって?」
「別に、なんでもいいだろ」
理人さんは面倒そうに応え、首に巻きつけていた薄い布をシュルリと引き抜いた。
一見すると黒に見える濃いネイビーブルーのそれは、この間の旅行で買った松阪木綿のストールだ。
「理人さん、それ、俺のです」
「……」
「それに、俺の服」
俺の目の前に立つ理人さんは、今朝別れた時とはまったく違う服装をしていた。
黒い長袖のカットソーも、今にもずり落ちそうなズボンも、爪先の余った黒い靴下も。
全部、俺のものだ。
「あー……ごめん、間違えた」
理人さんが、苦しげに微笑う。
今にも泣き出しそうに歪んだアーモンドアイが、ついとそっぽを向いた。
「理人さん」
「んー?」
「なんで俺の服着てるんですか」
「だから、間違えたんだって」
「サイズ違うのに?」
「……」
残った片方の靴を脱がしていた手の動きが止まる。
「俺がいなくて淋しかったんですか。それとも――」
独りで、
「怖かった……?」
ヒュッと、空気が鳴いた。
「……なんだよ」
掠れた声がぽつりと溢れ、その弱々しさを誤魔化すようにスニーカーが叩きつけられる。
「ごめんって謝っただろ!急いでたから間違えただけだ!」
全身を使って俺の身体を弾き飛ばし、理人さんは廊下をずんずん歩いていく。
でもリビングに足を踏み入れる寸前、乱暴だった歩みがピタリと止まった。
「よう、おかえり」
「航生……」
呆然と呟く理人さんの後ろ姿は、まるで冷たい雨に打たれた子猫のように小さく震えていた。
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