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終-3:午前10時の旅立ち (16)

「夕飯、まだですよね?」 「……」 「とりあえずコーヒーでいいですか?」 「……」 理人さんは答えない。 それどころか、俺と目を合わそうともしない。 理人さんの視線は、ダイニングテーブルを囲むふたりの男に固定されていた。 「なにしに、来たんだよ」 絞り出された声は驚くほど小さく、震えているのに、彼らを見据える鋭い視線はまるで手負いの獣のそれだ。 見つめる先にどんなに優しい笑顔があったとしても、差し伸べられる手には牙を剥く覚悟を宿した瞳。 至極強そうでいて、その奥に隠されているのは目の前の人間に対する純粋な〝恐怖〟だ。 「神崎」 静かな声で反応したのは、木瀬さんの向かいに座っていた三枝さんだった。 「……なに」 「座れ」 「いやだ」 「座れ!」 「いやだ!」 全身の毛を逆立てながら、理人さんが必死に抵抗する。 三枝さんの手のひらが、テーブルを強く打った。 「お前、いい加減にしろよ!今日だって言ってあっただろ!」 「なにが」 「産業カウンセラーとの面談だよ!」 理人さんの喉が鳴る。 目玉だけをぎょろりと動かしキッチンで佇む俺の姿を認めると、ひどく狼狽えた。 「そ、その話なら会社でっ……」 「大丈夫です、理人さん」 「えっ……?」 「全部知ってます」 途端に、理人さんの瞳がその色を変えた。 その暗く重い感情を、俺は見たことがある。 病院で死にかけていた理人さんを見守っていた人たちと同じ。 そこに在るのは、 絶望。 「俺が伝えた」 木瀬さんの無機質な声が、理人さんの呼吸を乱れさせた。 「な、んでだよ……なんでよりにもよって佐藤くんにっ……」 「お前、最後にちゃんと寝たのいつだ?」 濃く縁取られたアーモンド・アイが、瞬きを止める。 「最近、仕事もミスしてばっかりだろ」 「……」 「ミスすることが悪いって言ってるんじゃねえ。ただ、お前らしくないって言ってるんだ」 木瀬さんは、とても丁寧に言葉を紡いだ。 まるで、歳の離れた兄が幼い弟にそうするように。 理人さんの口が、真一文字に結ばれる。 小刻みに震えた薄い唇はゆっくりと形を変え、やがて不気味なほど整った弧を描くと、俺たちを嘲笑った。 「俺らしいってなに?」 「理人さん……?」 「お前ら、俺のなにを知ってるつもりなんだよ?」 鼻から乾いた息を吐き、大きく身震いする。 「なにもっ……誰も、知らないだろ!俺が毎日どんな思いでっ……」 「じゃあ、教えろよ」 「……!」 「お前の気持ちがわかるのがお前だけってんなら、お前自身の言葉で俺たちに教えてくれ」 理人さんは、文字通り、言葉を失った。 ああ、そうか。 わからないんだ。 理人さん自身にも、理人さんの心が――… 「理人」 抑揚のなかった木瀬さんの声が、はじめて揺れた。 「俺も、三枝も、佐藤くんも……みんな、お前のことが心配なんだよ。俺たちの言葉に従うのがどうしても癪ってんならそれでもいい。ただ、佐藤くんにはきちんと話せ」 「……」 「お前も……お前なら、もう、分かってんだろ?」 木瀬さんたちは丁寧にコーヒーの礼を口にすると、見送りの申し出も断りあっさりと帰っていった。 急に人口密度が半分になった空間を、手付かずのまま残されたコーヒーの香りがふよふよと漂う。 「理人さ――」 「いつから?」 「え……」 「いつからだよ!」 ようやく交わった視線の先には、真っ赤に充血した理人さんの目があった。 ひとつ大きく深呼吸し、今まで言えなかった事実を告げる。 「初めて倒れた日からです」 「なんでっ……」 「木瀬さんが教えてくれました。理人さんはきっと自分からは打ち明けないだろうからって」 「それで、二週間ずっと……?」 「え?」 「ずっと、笑ってたのか!」 「理人さん……?」 「病み上がりだからとか心配するフリしながら、心の中では弱いやつだって……情けないやつだって笑ってたんだろ!?」 「なに言ってるんですか。そんなわけないでしょ?」 「俺はカウンセリングなんか受けない!どこもおかしくなんかない!」 「理人さん……!」 乱雑な音を立てて閉ざされた書斎の扉を、俺はただ見つめることしかできなかった。

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