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終-3:午前10時の旅立ち (17)

翌朝。 俺は鬼のような形相の理人さんと対峙していた。 玄関の扉の前で。 「仕事に行く」 「行かせません」 「どけよ!」 「どきません!」 ギリっと奥歯を噛み締め、理人さんが右手を握りしめる。 殴られるかもと身構えたけれど、理人さんは拳を振り上げたりはしなかった。 「理人さん」 「……」 「お願いだから、話だけでも聞いてください」 俺の懇願を拒否するかのように、かち合っていた 視線が外される。 理人さんの横顔は青白く、いつになく儚い。 俺は肺いっぱいに空気を吸い込み、そして吐いた。 「兄貴の大学の先輩が心療内科の先生で、そっちの方では有名な人らしいんです。本当は今日は休診日らしいんですけど、事情を話して特別に予約入れてもらいました。一緒に行きましょう」 「……いやだ」 「嫌でも行きます」 「言っただろ!俺は病院なんかっ……」 「分かってます。理人さんは悪くない」 「え……?」 「理人さんはなにも悪くないし、情けなくなんかない。理人さんが今苦しいのは、生きてるからです。信じられないくらい辛い目に遭った。怖い目に遭った。だから苦しい。それは普通のことでしょう?」 〝酒を無理やり飲まされた〟 それが俺だったなら、とっくの昔に『ちょっと特殊な思い出話』になっていただろう。 もしかしたら、数年後には「あの頃は無茶したよなあ」なんてを得意げに語っていたかもしれない。 でも、理人さんにとっては違う。 あの時、長谷部にはなかった。 まさか本当に理人さんが生死の境を彷徨うことになるとは、あの男は夢にも思っていなかったのだ。 それを証明したのは、皮肉にも理人さん自身が録音したあの音声だった。 その結果、あの事件は殺人未遂ではなく傷害致傷として捜査が進めらている。 でも、そんなことは関係ない。 理人さんはあの瞬間、確かに〝殺されかけた〟のだ。 ――道連れにしてやる! ありったけの憎悪を向けられながら、迫りくる死の恐怖に晒される。 どんなに怖かっただろう。 「俺にできることがあるならなんでもします。俺が一緒にいるだけで理人さんの痛みが消えてなくなるなら、どれだけでも一緒にいます。でも、今の理人さんに必要なのは、ちゃんとした〝治療〟です」 本当は、俺がなんとかしたかった。 なんとかできるはずだと、自惚れてもいた。 悔しい気持ちがないわけじゃない。 情けなさだって、やるせなさだって、油断したらすぐにでも爆発しそうなところにある。 それでも俺は、理人さんを病院に連れて行きたい。 理人さんの〝日常〟を取り戻す。 その役目を果たせるのが俺でないなら、俺はそれができる人に助けを求める。 ただ、それだけ。 「お願い、理人さん。苦しむ理人さんを見ていたくないんです」 もう一度、理人さんの本当の笑顔が見たいから。 「だから、頷いてください――俺のために」 玄関が、不完全な沈黙に包まれる。 理人さんの荒い呼吸の音が、耳を痛めた。 やがて力なく開いた左手から鞄がずり落ち、ドサリと音と立てて崩れる。 歪んだ黒革にぽつりと落ちたのは、小さな涙の雫だった。

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