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終-3:午前10時の旅立ち (18)
淡いベージュに囲まれた空間を、控えめなクラシック音楽がゆったりと横切って行く。
聞き覚えのあるメロディは耳に心地よく、騒ついていた心をいくらか落ち着かせてくれた。
休診日の今日、『志生野 メンタルクリニック』の待合室には俺しかいない。
本来人影があるはずの受付も無人だ。
理人さんが診察室に呼ばれて、もうすぐ一時間。
硬めのソファに座り、ただひたすらに――待つ。
スマホを眺めてみたり、雑誌や新聞を広げてみたり、壁のポスターに目を凝らしてみたり。
いろいろ試してはみたけれど、結局しっくりくる行動が見つからず、一連の動きを終える度にまたソファの同じ場所に舞い戻ってくる。
そんなことばかりを繰り返していた。
自由に見ても良いからと渡されたテレビのリモコンも、手付かずのままだ。
視界の先では、昔ながらの丸くでっぷりとした金魚鉢が優雅に水を携えていた。
ヴンヴンとポンプが唸る音が床を這う。
人工的に作られた空気の泡の周りを、三匹の金魚が思い思いのスタイルで泳いでいた。
黒と赤と橙が、時折ぶつかり合いそうになりながらも絶妙な距離を保ち、美しく舞っている。
その光景は、俺にあの花火大会を思い出させた。
必ず訪れる別れを思うと辛いからと、すくった金魚たちを連れて帰れなかった理人さん。
そんなにも心優しい人があんな目にあって、傷ついていないはずがなかったんだ。
診察室へと続く扉は固く閉ざされ、物音ひとつ聞こえてこない。
なにを話しているんだろう。
そもそも、話せているだろうか……?
泣いていないだろうか。
いや、泣いていてもいい。
泣いていてほしい。
もしもそれが、理人さんがずっと我慢してきたことなら。
――もう遅すぎた。
そうでないことだけを、俺はただひたすらに祈った。
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