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終-3:午前10時の旅立ち (19)

「理人さん……!」 理人さんが出てきたのは、それからさらに十分後だった。 ベージュの扉を後ろ手で閉め、その場に佇む。 目頭がうっすらと赤い。 「どう、でした?」 立ち上がった俺の足元を所在なさげに見下ろし、理人さんはただ沈黙した。 思い描いていた最悪の事態が脳裏を過り、口の中が乾いていく。 「理人さ――」 「ちょっと外の空気吸ってくる」 「えっ!?あっ……」 伸ばした俺の手を避けるように、理人さんは足早に待合室を出て行った。 細い影が、あっという間に視界から消えてしまう。 まさか。 まさか、もう――… 「英瑠君?」 ネガティブな思考に溺れかけていた意識が、穏やかな声に引き戻される。 振り返ると、志生野(しおの)先生が扉の隙間から顔を覗かせていた。 「どうぞ、入って」 「えっ……」 「彼なら大丈夫だから」 スルリと扉が滑り、どこか閉鎖的だった空間が一気に開ける。 誰もいない待合室に視線を彷徨わせてから、俺は診察室に足を踏み入れた。 「コーヒーでいい?」 「えっ、あ……はい」 「ブラック?」 「え?あ、あの……」 「ミルクと砂糖ね、了解」 志生野先生は口角を上げて微笑み、背を向けた。 俺には見えない向こう側から、トポトポとなにかが注がれる音がする。 やがて、嗅ぎ慣れた香ばしいかおりが漂ってきた。 うっかりすると、ここが病院だということを忘れてしまいそうだ。 主要な路線が集まる連絡駅の商業ビルの最上階。 広い窓から見える景色といえば、ただひたすらに行き交う電車の残像ばかり。 色とりどりの車両は鉄道ファンにはたまらない光景かもしれないけれど、メンタルクリニックの診察室から見下ろす景色としては、些か煩雑に感じてしまう。 「電車好きなの?」 「あ、いえ、好きというわけでは……」 「実は私もそれほど興味がないんだ。こんなところにいるのに贅沢だけれどね」 「はあ……」 「はい、熱いから気をつけて」 「あっ……ありがとうございます」 差し出されたマグカップを両手で包み込むと、確かに熱かった。 相変わらずニコニコしたままの先生に促されるように、キャラメル色のソファに腰を下ろす。 ひとりがけのそれは、ちょうど良い安心感で俺を挟み込んでくれた。 「お兄さんに似てるね」 「そうですか?」 「うん、目元がそっくりだ」 「それは……よく言われます」 なんとなく照れくさくなり、熱い湯気を立てるコーヒーをすすった。 じんわりと舌先を焼かれながら味わっていると、志生野先生も向かいのソファに座る。 長い足を組むと、ゆったりと背中を預けた。 そして白髪混じりの髪をかき上げ、穏やかな瞳で俺を見つめる。 「さて……いきなり本題で悪いんだけど、今、理人君の心……というより、頭の中でなにが起こっているのか、簡単に説明させてもらうよ」 「えっ、でも……」 「理人君からは了承もらってる。自分からはうまく伝えられる自信がないから……って」 先生は、灰色の眉尻を下げて穏やかに笑んだ。

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