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終-3:午前10時の旅立ち (20)
「PTSDって知ってる?」
「はい」
志生野先生は、右の眉をわずかに押し上げた。
「もしかしたらそうかも知れないと思ったので……予習してきました」
「理人君も同じことを言っていたよ」
「えっ……自覚、あったんですか」
志生野先生は、一冊の本を差し出した。
『PTSDと向き合うための基礎知識』
あ……もしかして、
――なんの本買ったんですか?
――ちょっとな。
――ちょっとって?
――別に、なんでもいいだろ。
昨日?
「彼はとても賢いね」
先生は、身体を捻り本をデスクに置いた。
そして再び俺に向き直る。
「そして驚くほど繊細だ。なんとかしたい、なんとかしなきゃいけない、と思いながらも、どうしていいのか分からなかったようだよ」
「でも、俺にはそんなのひと言も……」
「理人君は、君に捨てられることを怖れている」
「捨てる?俺が?」
理人さんを……?
「彼は若くして両親を亡くしたそうだね」
「あ、はい。交通事故で……」
「そして、以前の恋人にも捨てられた。彼の言葉を借りるとね。どちらも人生経験としては珍しくない出来事だけれど、乗り越えるには多大なエネルギーが必要だ。彼のように突然の別れだったりすると、特に」
先生は、淡々と言葉を紡いでいく。
「人間はたまらなく辛い出来事に直面すると、壊れかけた心を守ろうと防御本能が働く。その現れ方はひとりひとり違うけれど、理人君が選んだ方法のひとつが仕事に打ち込むことだった。仕事に没頭すればするほど、心の痛みを忘れていられる。それでなんとか心の均衡 を保っていたんだろうね」
理人さんの驚くほど完璧な仕事ぶり。
単に理人さんがずば抜けて有能なだけなんだと思っていた。
「でもそれは、傷がどんどん化膿していくのに気がつかないまま放っておいたのと同じだ」
――ずっと色のない世界で生きてるみたいだった。
理人さんの掠れた声が、耳の奥を震わせる。
――仕事も頑張ってたつもりだったけど、でも本当は頑張る意味なんてなにも見つけらずにいたんだ。
「そこに、君が現れた」
「えっ……」
「懸命に築き上げた心の壁が、君によってどんどん崩されていく。彼にはなにが起こっているのか分からなかっただろうし、きっと自分自身の気持ちの変化にもついていくだけで必死だったと思うよ」
理人さんは、これまでに何度も俺から離れようとした。
触れられることを拒んだり、身体を繋げることを躊躇ったり、俺を手放す覚悟を決めたり。
近づいたと思った距離は、必ず一度遠ざかった。
そんな時の理人さんは、いつもなにかにひどく怯えていた。
「ふたりで旅行に行ったんだって?」
「あ、はい。伊勢の方に……」
「どうだった?」
「楽しかったです……とても」
「理人君も、その話をする時だけはとても優しい表情をしていたよ。本当に楽しかったんだと思うし、きっと彼にとっては、ようやく心に纏っていたすべての鎧を取り払うことができた四日間だったんだろう」
――佐藤くんに出会えたことを感謝していたんだ。ありがとうって、神様に。
ああ、そうか。
俺たちは、これからだったんだ。
あの夜が、俺たちの本当の始まりになるはずだった。
それなのに、あんなことが――
「悲劇というものは得てして幸せの絶頂に訪れるものだけれど、今回ばかりは私も言葉を失くしたよ……」
志生野先生は震える息をゆっくりと吐き出し、すっかり冷めてしまったコーヒーを静かに啜った。
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