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終-3:午前10時の旅立ち (21)

「英瑠君」 「はい」 「今から厳しいことを言うよ。いいかな?」 「……はい」 「理人君は、これから一生、ずっと心の傷と付き合っていくことになる。切り傷や擦り傷と違って、完治させることはできないんだ。どんな薬や手法を使っても……」 マグカップを持つ手が震えた。 頭では理解していたはずの現実が、音になった途端に鋭利な刃物となって胸を切り裂いた。 に対する怒りが、ふつふつとこみ上げてくる。 たとえ法の裁きを受けたとしても、そんな程度じゃとても足りない。 やつにも同じ苦しみを味わせてやりたい。 自分のこの手で――そんなどす黒い感情が、心の底からどんどん湧き上がってくる。 「だけど、癒すことはできる」 俺は、ハッと顔を上げた。 微笑(わら)っていると思った志生野先生は、まったく微笑っていなかった。 まるで諭すように、ひと言ずつゆっくりと丁寧に言葉を紡ぎあげていく。 「長い戦いになると思う。三歩進んで二歩下がるなんて、夢のまた夢だ。たとえ三歩進んでも十歩下がってしまうこともあれば、時には後ろに下がるばかりで、一歩も進めない日だってあるだろう。それでも、彼が今日こうしてここに来られたことは、とても大事で、大きくて、奇跡のような第一歩なんだよ」 その〝一歩〟を踏み出すために、理人さんはいったいどれだけの勇気を振り絞ったんだろう。 「彼の心の回復には、英瑠君、君の存在が不可欠だ」 「俺……ですか?」 志生野先生は、深く頷いた。 「彼の苦悩を分かち合おうとか、半分背負ってやろうなんて思う必要はない。ただ、そばに君がいる。そのことが、理人君にとっての最大の救いなんだ」 ふいに、涙が出そうになった。 この数週間、ずっと自問してきた。 理人さんはなぜ俺に助けを求めてくれないんだろう? 俺が頼りないからだろうか? 俺のことを信じられないからだろうか? もしかしてもう、俺は必要ないんだろうか……? そう問いたくて、でも答えを聞くのが怖くてなにも言えなかった。 思いもしなかった。 まさか、本当にそばにいるだけで良かったなんて。 「それでも、愛だ恋だなんて綺麗ごとばかりじゃとても長続きはしないだろう。恋人同士どころか、血の繋がった親子や兄弟でさえも根を上げて去っていってしまう場面を、私はこれまで何度も見てきた。私自身だって、医者だから彼の苦しみが分かると言いたいが、完全に分かってやることなんて到底できない。愛する人に理解してもらえない辛さ以上に、理解したくても理解できない苦しみは何倍も大きく、悲しみは海よりも深いものだと、私は思う」 先生の言葉には、不思議な重みがあった。 もしかして、彼にもいたのだろうか。 救ってあげたい誰かが。 「だからね、英瑠君」 「……はい」 「君が理人君から離れるなら今しかない」 「えっ……」 「彼はひどく傷つくだろう。だが、今ならまだなんとかなる。いや、私がなんとかしよう。だが一度しまったら……分かるね?」 俺は、呼吸を止めた。 志生野先生の目は、「覚悟を決めろ」と言っていた。 生半可な気持ちで隣にいるなら、俺の存在はかえって理人さんの傷を抉ることになる。 だから、覚悟を決めろ――と。 「さて、どうする?」

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