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終-3:午前10時の旅立ち (22)
理人さんは、待合室の端っこにいた。
長い指を左右に動かしながら、ガラス越しに金魚たちと戯れている。
その横顔は、穏やかだ。
「お待たせしました」
できるだけ声を潜めて呼び掛けたつもりが、BGMの消えた空間には思いがけず大きく響いた。
細い背中が跳ね、その反動で乱れた水の世界の中を、黒い出目金がヒレを忙しなく動かしながら逃げ惑う。
哀れな金魚が水草に隠れるのを見届けてから、理人さんはゆっくりと振り返った。
歪んだふたつのアーモンド・アイに見上げられ、出会ってすぐの頃を思い出す。
俺たちが、まだ深く繋がる前。
あの時も、理人さんはこんな風に俺を見上げていた。
俺に嫌われるんじゃないか――そう、怯えながら。
「帰りましょうか」
「えっ……」
「薬ももらいましたし、はい」
「あ……ありがとう」
「次の診察は日曜日の同じ時間だそうです。今週はバイトないんで、俺も一緒に来ますね」
「……」
「あ、あと、今日は受付に人がいないから、診察代もその時でいいって」
「……」
「理人さん?」
「……」
「大丈夫……?」
「な、んで――…」
震えた言葉尻は、空気に溶け込むように消えていった。
紡ぐ言葉を失くした理人さんの薄い唇が、懸命に喘ぐ。
突然陸に投げ出された魚のようにぱくぱくと開閉する様子があまりに滑稽で、俺はつい肩を揺らして笑い、そして、
「んみょっ」
三本の指で理人さんの唇を摘んだ。
「ばあああぁぁぁぁ……っか!」
理人さんと離れる?
捨てる?
そんなの、選択肢に並べる前にこっちから狙い下げだ。
俺は、理人さんがイケメンだから一緒にいるんじゃない。
仕事ができるから一緒にいるんじゃない。
理人さんが理人さんだから、一緒にいたいんだ。
どんな理人さんだとしても、俺は一生離さない。
そばにいると決めた。
大事にすると誓ったんだ。
たとえそれが、傷だらけの理人さんだったとしても。
「俺が今さら手を放すとでも思った?」
瞬きを忘れた、ふたつのアーモンド・アイ。
珍しく乾いていたそこに、透明の感情がどんどんせり上がってくる。
そして――
「ふっ……っく……っ」
ぽろぽろと溢れ落ちた。
「もう……泣き虫」
小刻みに揺れる頭ごと抱え込むと、重なり合った手に力がこもる。
ふたつのエンゲージ・リングが擦れあい、優しい音を奏でた。
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