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終-3:午前10時の旅立ち (24)
「おはようございます、理人さん」
「……おは、よ?」
アーモンド・アイが、素早く瞬いた。
「どうしたんですか?」
「佐藤くんがいる……と思って」
「プッ、違います。理人さんがいるんですよ」
「え……?」
理人さんは、ゆっくりと視線を右へ、左へ、そして上へと動かした。
僅かに遅れて俺もその軌跡を追いかけると、ぐるりと見渡した空間はもうすっかり明るい。
理人さんは最後にもう一度俺を見上げ一瞥すると、俺のパジャマに顔を埋めた。
さらりと流れ落ちた髪の毛先が、首筋をくすぐってくる。
鎖骨に当たる鼻の頭はとても冷たいのに、左右の頰はほんのりと熱かった。
「よく眠れました?」
「……うん」
「よかった」
理人さんは、また朝に弱くなった。
最初に処方された睡眠導入剤とは相性が悪く、眠りに落ちて数時間するとひどい頭痛に襲われ必ず目を覚ましていた。
もしかしたら徐々に治まるものなのかもしれないと一週間飲み続けてはみたものの一向に改善されず、結局その次の診察で志生野先生に相談して薬を変えてもらった。
すると今度は心配していた副作用もほとんどないまま、理人さんは朝まで眠れることが増えていった。
『良質の睡眠はすべての不調を解消する』
理人さんと一緒に読んだ本に書いてあった一文だ。
その時は「まさかあ〜」なんて軽くあしらってしまったけれど、もしかしたら本当なのかもしれない。
薬の効果に比例するように、理人さんは日に日に元気になっていっている。
今度は偽物の元気じゃない、本物の元気だ。
激しかった感情の起伏が穏やかになり、食欲も大人の男が食べる平均的な一食の量を食べきれるくらいには戻ってきた。
デザートのアイスまではまだ辿り着けていないけれど、『この冬新作のアイス』とか『期間限定フレーバー』とか、一度は興味を失っていたフレーズにまた敏感に反応するようになった。
仕事のミスも、今ではほとんどない。
最初はどことなく遠慮していた部長や部下たちも、最近は以前のように理人さんを頼るようになってきて、本人は仕事にやりがいを感じると喜んでいるし、俺も安堵している――反面、心配しすぎる心がまたムクムクと復活してきてしまっている。
理人さんは、すぐに「もっと、もっと」と頑張ろうとするから。
でもうっかり残業でもしようものなら、普段から厳しい目を光らせている木瀬さんと三枝さんと、時には渋谷さんにまでこっぴどく叱られることになった。
そんな時の理人さんは、決まって悪戯を見つかった子犬のように可愛く項垂れていて、俺はつい溢れそうになる笑いを噛み締めるのだった。
順調だった。
理人さんも、俺も……俺たちは、ほんの少しずつ、でも確実に、元の平穏を取り戻しつつあった。
ただひとつのことを除いて。
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