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終-3:午前10時の旅立ち (25)

「……ごめん」 理人さんが、涙目で俺を見上げる。 「なんで謝るんですか」 「だって……」 「理人さん、いいから」 「でも……」 「もう黙って。俺はこうして一緒にいられることが幸せなんです」 理人さんは、勃たなくなった。 飲み始めた抗不安薬の副作用のひとつだ。 志生野先生からあらかじめその可能性については聞いていたし、一時的なものだから薬を飲まなくなれば自然に治ることも知っている。 それでも理人さんは、毎晩トライし、毎晩泣いた。 男のプライドが云々というよりは、俺を満足させられないという罪悪感と不安がそうさせているんだと思う。 「ごめん……っ」 「泣かないで。理人さんのその気持ちだけで俺は天にも昇る気持ちですから」 震える背中をさすると、パジャマの前身頃がますます濡れた。 全身でしゃくり上げながら涙する恋人を前にして不謹慎だとは思うけれど、かわいいなあ、なんて思ってしまう。 セックスなんてどうでもいいのに。 そりゃしたいかしたくないかと問われたらしたいに決まっている。 でも俺は、理人さんが隣で生きていてくれることが幸せだった。 俺の望みは、理人さんが俺の隣で笑っていてくれること。 ただ、それだけ。 「理人さん、今度こそ淡白キャラ返上ですね」 「な、んでっ……?」 「前は二年間そういうことしなくても平気だったんでしょ。でも今はこんなにもしたがってる」 「だって……好きな人、いなかった」 「好きな人?」 「今は、佐藤くんがいる、だろ。そしたらしたいって思うに……決まってる」 あ、これはまずい。 「佐藤くん、勃って……」 「気にしないでください」 「でも……」 「いいから」 「俺が……」 「理人さん」 下半身に届く寸前に長い指を絡みとり、そっと唇を寄せた。 アーモンド・アイが丸く輪郭を変え、青白かった頰にサッと色が灯る。 かわいい。 「そういうのは今はいいんです」 「で、でもっ……」 「なにか俺にしてほしいことありますか?」 「えっ、俺が……?」 「はい」 理人さんは、ぱちぱちと瞬きした。 長いまつ毛に乗っかっていた涙が、小さな飛沫となって飛び散る。 濡れた涙袋をついと辿っていた親指が、ふいに暖かい手に包み込まれた。 「ピアノ、弾いてほしい」

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