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終-3:午前10時の旅立ち (31)

「あ!ごめんなさい、LIME来てたのすっかり忘れてました……」 「LIME?」 「ちょうど近くに用事があるから帰りに寄っていいか、って。ダメでした?」 「ダメじゃない、けど――」 ピンポン! 今度は、玄関の呼び鈴が鳴る。 押し開けようとした扉は勝手に開き、 「メリー・クリスマース!」 陽気な男女の声が、廊下に響き渡った。 「メリー・クリスマス。いらっしゃいぶふ!」 隠しきれない苦笑を漏らしながら紡いだ言葉が、唐突なもふもふに遮られる。 吐息の行方と同時に遮られた視界の中で、毛むくじゃらの茶色い塊が揺れ動いた。 「はい、クリスマスプレゼント!」 「ありがとう……ってなにこれ?」 「トスココで見つけて、つい買っちゃったの。理人君のもあるのよ」 「まさか、これをふたつも買ったの?」 改めて腕の中に収まりきらないそれを見つめる。 ぬいぐるみだからそれほど重くはないけれど、サイズ感はもうすぐ6歳になる瑠未とそう変わらない。 「理人さん、見てこれ。でっかい熊の……理人さん?」 振り返った先に、理人さんの姿はなかった。 慌てて見回すと、理人さんは廊下の一番奥に佇んでいた。 リビングとの境目で、細い影が震えている。 まるで、伊勢神宮の大鳥居を前にした時のように。 「理人さん?どうし――」 踵を返しかけると、そっと肩を叩かれた。 「お邪魔します」 父さんは硬い声で言い捨てると、無表情のまま靴を脱ぎ捨て、固まったまま動けずにいる理人さんに近づいていく。 そして―― パンッ。 乾いた音がして、理人さんの左頬にサッと赤が走った。 「ちょ、父さん!?」 飛び出そうとした俺を、母さんがやんわりと制する。 「この親不孝者!」 低い叱責の声が細長い空間に響き渡った。 理人さんの全身が跳ね、引きつった左足が絨毯の上を一歩後ずさる。 父さんはまるで追随するようにその距離を詰め、 「……っ」 理人さんの細い身体をすっぽりと包み込んだ。 「困ったことがあってもなくても、いつでも頼ってこいと言っただろう!どうして我慢なんてしたんだ!」 こちらを向いたままの理人さんの顔が、目を見開いたところで静止する。 「まったく……君はもうひとりじゃないと、いったいいつになったら分かってくれるんだい?」 大きな手が、理人さんの髪を乱暴にかき乱す。 綺麗な円を描いていたふたつの瞳がゆらゆらと揺れ始め、輪郭が歪んだ。 父さんの腕がゆっくりと上下し、不規則に痙攣する理人さんの背中を摩る。 「よく、頑張ったね」 「……」 「でも、もうひとりで頑張らなくていいんだ」 「……」 「家族だろう?」 「……」 「一緒に乗り越えよう」 「……っ」 ついに堪えていた感情が溢れ出し、理人さんの頬を伝った。 やがてそれは止めどない流れとなり、控えめな嗚咽に変わる。 父さんがまるで小さな子供を慰めるようによしよしすると、漏れ出る声が大きくなった。 「あらあら、大変」 相変わらず全然大変そうじゃない声で母さんが笑い、 「ずるいなあ、もう」 俺はこっそり嫉妬した。

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