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31-3
日曜日、命じられた通りに図書館へ向かえば天音のことを待っていた冬森。
平日、放課後にも来るよう命令されて。
「制服もなんか黒っぽい」
閉館までの二時間足らずを一緒に過ごして。
「ピザまんがいい」
コンビニで遅めのおやつをご馳走してあげたりして。
「家の人、帰りが遅くなって心配してないか」
「ウチ、店やってっから。真っ直ぐ帰っても親いねーもん。ゴハン遅ぇもん。兄貴だって帰んの遅いし」
「お兄さん、いるのか」
「弟もいる、すげーバカなの」
それまで日常にいなかったはずの冬森が天音の日々に何ら違和感なく溶け込みつつあった。
「コーヒー、飲ませろ」
体育はまぁまぁ得意だけど特に好きではなく、一般科目は嫌い、忘れ物が多い、金魚に餌をあげ過ぎて怒られた、小さな冬森。
「マズ」
活発そうだが、面倒臭がりで、短めの髪、滑々していそうな褐色肌。
「砂糖とミルク、いれよっと、どばどば」
時々、ランドセルを背負って図書館にやってくることもある。
「……」
甘さの増したコーヒーを一口飲んで天音が浮かべた表情に冬森はフンっと得意げに笑った。
「天音にそーいう顔させんの、俺くらいだろ」
きっと一時的な幻想じみたものだろう、と天音は思う。
中学進学を前にして、もうじき否応なしに訪れる変化に無意識に怯えた心が現実逃避を望んで、どこか非日常に憧れて。
その対象が俺なのかもしれない。
「ふわぁ」
平日、午後六時過ぎの図書館。
閉館時間の七時に近づいて利用者が次第に減っていく中、いつもの長テーブル席で天音は読書、冬森は隣で漢字ドリルの宿題をしていた。
「……冬森」
こてっともたれてきた、モッズコートを着たままの冬森に天音は微苦笑した。
まぁいいかと、文庫本に意識を戻そうとしたが。
あたたかいな。
少し重たい。
服越しに鼓動が伝わってくるみたいだ。
周囲には自分達以外に誰もいなかった。
暖房は効いているものの隙間風がひどくて薄ら寒い窓際、外はすっかり夜に満ちて、イチョウ並木が外灯にぼんやり照らされていた。
どうにも意識が古びた香りのするページから逸れがちで窓の外をぼんやり眺めていた天音だったが。
「天音」
視線を向ければ寝ていると思っていた冬森が自分を見上げていた。
「お前、俺のことナメてんだろ」
言われたことの意味がわからずに問い返そうとした天音の唇に冬森はキスした。
カチャ、と眼鏡が音立てた。
レンズの下で瞬きを忘れた純和風まなこ。
時間さえ止まったような気がした。
「今日の、難しスギ」
冬森はぱっと顔を離して宿題を再開した。
漢字ドリルと向かい合った小さな彼に初キスを奪われた天音がしばらく呆気にとられていたら。
「天音、動揺しスギ、キスなんてどうってことねーだろ」
虫食い問題で手が止まっている冬森にそう言われて。
天音の胸はズキリと痛んだ。
浮遊していた意識がマイナス感情に凝り固まって伸しかかってきたかのような。
「冬森は……」
「この問題、わかんねー」
「経験があるのか……?」
「こっちもわかんねー、あーくそ」
「……冬森?」
天音はやたら俯いて漢字ドリルに難儀しているらしい冬森を覗き込んでみた。
冬森は……まっかっかになっていた。
シャーペンを必要以上にぎゅうううっと握りしめて、解答欄に意味不明な線をぐるぐる連ねていた。
「冬森」
「ねーもん……したことねーもん……今のが初めてだもん……天音が初めて……」
そう言うなり冬森はフードをばさっとかぶって顔を隠してしまった。
ああ、だめだ。
冬森にとっては現実逃避に等しい一過性の戯れなのに。
本気にしたらだめだ。
そもそも小学生だ、ランドセルを背負って小学校に通っている、まだ小さなこどもだ。
おやつをあげて、ちょっとした非日常で気分転換してもらって、それだけの関係で済ませなきゃいけないのに。
これ以上、冬森を俺の日常にしてしまったらだめだ。
「会うのは今日で最後にしよう、冬森」
意味不明な線で埋まりつつあった一つの解答欄。
ぴたっと止まったシャーペンの切っ先。
「明日からは友達とこれまで通り普通に過ごして、中学に入ったら部活は何にするか、将来どんなことがしたいか、普通のことを話し合って。みんなでコンビニに寄り道して肉まんを食べたらいい」
「に、肉まん」
「ピザまんでもいいから。その方がいい。その方がきっと楽しいから。俺のことなんか忘れていい」
「わ、忘れて……」
ぼたり
漢字ドリルの端っこがいきなり濡れた。
天音は微かに息を呑む。
「な、なんでそんな……急に……センセーみたいなこと言うの……中学とか、部活とか、将来とか……知ってるけど、そんなこと……大切だってわかってっけど……?」
ぼた、ぼた、ぼた
「で、でも……それ以上に……天音のこと、大切だもん……いきなり忘れろって……なんでそんなこと言うの……なんで?」
まるで縋るようにシャーペンをぎゅうううっと掴んだ冬森は天音を見上げた。
涙がぼろぼろ溢れる双眸で大好きな彼をじっと見つめた。
「おれのこときらい?」
冬森、冬森。
ごめん。
正しい道を教えることができない立派な人間じゃなくてごめん。
「嫌いじゃないよ」
自分の欲に負けた、突き放すべき冬森のことを手放せない、弱い人間でごめん。
「あ、あまねぇ~……天音ぇ……」
「嫌いじゃない。冬森。嫌いじゃないから」
「好き」と言葉にしてしまうのはまだ怖くて。
涙で濡れた褐色頬を掌で拭って、クシャクシャに歪んだ顔を両手で挟み込んで、天音は冬森に微笑みかけた。
「う、う、う」
「今日、肉まんもピザまんも食べていいから」
「う、う、う? や……やったぁ……」
泣きべそ褐色男子の食い意地につい声を立てて笑ってしまった眼鏡男子なのだった。
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