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38-ある春の夜だゾ
『ありがとう、冬森、行ってらっしゃい』
『行ってきます、天音』
冬森が武者修行のため遠方の温泉地の一角にて旬の料理が惜しみなく振る舞われる竜宮城ならぬ割烹旅館へ旅立ってから一年近くが経過した。
「できた」
天音は高校時代から書き続けてきた物語を完成させた。
相変わらず無駄なものがなく整然と片づけられたワンルーム。
温くなった緑茶を飲み干し、コタツから出、空になったマグカップを洗いにキッチンへ立つ。
前と変わらず黒ずくめの部屋着。
伸び気味のまっくろ髪は耳元や首筋にかかり、色白の肌に唇の自然な赤が以前よりも際立って見えた。
春休み課題のレポート作成と並行して執筆し、パソコンで酷使された純和風まなこはいつになく疲弊して、どことなく気だるげで。
そこはかとない虚ろな色香を放っているような……。
ぐぅぅぅぅう
朝食を済ませ、後は作業に集中して一日ろくに食事をとっていなかった天音のお腹が鳴った。
ずっとしたためてきた小説の最後の一文を今日書き上げた。
細かな修正、推敲は後日に回して、今日は特別なものを食べよう。
パーカーを羽織ってトートバッグを肩に引っ掛けた天音は外へ。
西日と宵闇が溶け合う黄昏刻、急がない足取りで吹き曝しの階段を下りて最寄りのスーパーを目指した。
公園や道端に佇む桜は満開。
穏やかに吹く風に花弁をふわふわ散らしている。
立ち止まって眺めていたら近所の野良猫が甘えたそうに寄ってきたので申し訳ないと思いつつ足早にその場を離れた。
程々に賑わうスーパーで卵粥の材料を購入し、甘やかな春の空気に誘われ、寄り道気分で遠回り。
履き慣らしたキャンバスシューズで近道も把握している生活圏内を緩やかに歩む。
一人で暮らし続けている街の匂いを改めて吸い込んでみたり。
閉店や取り壊しで今はもう亡き店の面影を脳裏に蘇らせたり。
歩道橋を渡っている最中に何となく上空を仰いでみれば上弦の月に見下ろされていた。
『でもなんかグロい色してんのな』
月を見ると冬森を思い出す。
教室の窓から一緒に月食を見たからだろうか。
『お前が自由に好きなように小説書けるよう、俺は、ちょっとでもいーから天音の力になりたい』
天音が小説を書いていることに前々から気づいていた冬森は、金銭的にも精神的にもバックアップできればと、親の店を継ぐことを決めた。
『冬森、気持ちだけで十分だ、俺だって冬森の好きなように人生の選択をしてほしい』
『は? お前何言ってんの? 俺が嫌々渋々で決めたと思ってんのか?』
『……』
『まー、いろいろクソめんどいとは思うけどよ、俺と天音のためなら頑張れ……うう、言い慣れねぇ、口がカユイ、まーそーいうことなんで』
遠方とは言え、その気になれば冬森のいる旅館へ行くこともできた。
しかし天音は敢えてそうしなかった。
修行中の冬森のためだとかじゃない。
自分のためだ。
一度近づいてしまえば、そこから離れられるかどうか、まるで自信がなかった。
「冬森」
ここにいない彼に天音は呼びかける。
元気にしているだろうか。
べ……別の誰かと親密な間柄になっていやしないだろうか。
「ごめん」
ついつい恋人の心変わりを疑ってしまった天音は心の底から詫びた。
桜の薫る帰り道、月に見送られながら、今は遠くにある褐色の肌に想い焦がれた。
「天音、会いたかった」
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