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第4話
それから毎朝、渡辺君は店に通ってくれた。
僕が出す朝食はホテルの物より美味いし、静かな店の方が落ち着く。そう言って来店し、必ずおはようのキスをくれた。
席は決まって湖が見える隅の席だ。
珈琲はブラック。かなり濃い目が好きらしい。何種類かの新聞を読み、スーツの内ポケットに入れている手帳に何か書き付けたりしながら一時間くらい過ごして店から出て行く。
東京からこっちに来たのは、東京で殺人事件を起こした指名手配犯の捜査の為らしい。ニュースや新聞で報道されている記事から得た情報では、犯人は別荘地に一時的に潜伏していた様だ。
そう知った時は怖いと思ったが、僕は渡辺君に何も聞かなかった。そもそも捜査の事は口外できないだろうし、わざわざ寒い中、ホテルを離れて店に来るのは、仕事から離れてリラックスする為に違いない。そんな時間を台無しにしてはいけないし、それに二人っきりで居られる時間を、生臭い事件の話なんかで無駄にしたくなかった。
懐かしい高校時代の話をしながらデザートのフルーツゼリーを出した時だった。
「……真、その手、どうした?」
「ん? 手?」
ゼリーを差し出した僕の手を渡辺君が掴んだ。右手の手首近くをじっと見ている。
「あぁ、これ? スポンジケーキをオーブンで焼いてる時にちょっと……」
「火傷か? 気を付けろ。真はそそっかしい所があるからな」
「そ、そうかな?」
「高校の時も、よく机の角にぶつかったりしてただろう?」
「そうだったっけ?」
良く気が付いたなぁ、と感心していると、渡辺君は火傷痕に唇を軽く押し当てた。優しい気遣いと惜しみないキスに照れてしまう。
「気を付けるよ。でも、渡辺君も気を付けてね。刑事さんって危険な目に遭う事も多そうだし」
「俺は大丈夫だ。真と違ってそそっかしくないからな」
「僕はそんなに……」
反論しようとした所で携帯電話の音がした。渡辺君のスーツの内ポケットから聞こえる。
「悪い、仕事だ。また明日来る」
「うん、気を付けて。いってらっしゃい」
立ち上がった渡辺君は「いってきます」と言いながら頬にキスをくれた。そして鞄を持って颯爽と店の外へ出て行った。携帯電話で話しながら去って行く背中は仕事が出来る男だった。
「いってらっしゃい……」
朝、夫を見送る新妻はこんな気分なのかもしれない。手作りの朝食を出し、危険を伴う仕事に出向く背中を見送るのは、幸せであると同時、何とも言えない不安を感じてしまう。
(……もし犯人がまだ潜伏していて、対峙する様な事になったら……)
きっと渡辺君は凛然とした態度で立ち向かうに違い無い。そして他の捜査員達に的確な指示を出し、確実に犯人を逮捕してしまうだろう。ただ、追い詰められた犯人がとんでもない行動に出たりしたら……。そう想像すると体が震えた。
「……大丈夫だよね。明日も来るって言ったし」
きっと大丈夫、そう自分に言い聞かせながら僕はケーキ作りに戻った。
天気は一日中悪く、強く雪が降り続いた。
見込んだ通り客足は悪かった。店頭に並べるケーキを少なくしていて正解だった。
夜八時――。
客の来ない店の入口を見詰めながら、そろそろ閉店しようかと思った時だった。店の電話が鳴った。相手はお世話になっているレストランのオーナーからだった。
「明日ですか? はい。はい……」
電話の内容は急に決まったパーティ用のケーキのオーダーだった。二十人程度で食べられる二段重ねのケーキを作って欲しいという。材料は全て揃えるからレストランに直接来てケーキを作ってくれないか、との事だ。
「明日は……えぇ、定休日ですから店は大丈夫です」
いつもオーダーをくれるレストランのオーナー直々の依頼を無碍に断る訳にもいかない。
結局、朝からお邪魔して昼のパーティに間に合う様、ケーキを作る事になってしまった。
「……そっか。明日、定休日だったよ」
店を開けない日だ。真っ先に渡辺君の顔が頭に浮かんだ。
「明日も来るよね……。どうしよう。朝から準備に行かないといけないんだ」
しまった……と思ったものの、考えてみれば渡辺君の連絡先を知らない。携帯電話の番号も聞いていないし、滞在しているホテルも知らない。
「箱に入れて朝食を外に置いておく訳にもいかないし……どうしよう」
途方に暮れる、とは正にこの事だ。だがいつまでも渡辺君の事ばかり考えている訳にもいかない。明日のケーキのデコレーションを考えないといけないのだ。
「どうしよう……。ゴメンね、渡辺君」
暗い外に向かって呟いてから僕は明日の試作品を作る為に店を閉めた。
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