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第6話
朝――。
ホテルのレストランに納品するデザートを渡しながら僕はひとつの決心を固めていた。
馴染みの配達員に珈琲を出しながら、できるだけ平素を装って尋ねてみた。
「あの……、ニュースでやってる事件、知ってますか?」
「あぁ、二年間逃げ続けている指名手配犯が近くの別荘に潜伏していたっていう事件だろう? しかも五人も惨殺した殺人事件の犯人だっていうじゃないか。いやぁ、別荘とか警察署周辺も凄いけど、ウチのホテルも凄いよ」
「え? ホテルの周りも?」
「何でも東京から来ている刑事さんが泊まっているとかで、表も裏も報道陣が張り込んでてね。朝から晩まで大騒ぎだよ」
「そうなんだ……。大変ですね」
「まぁ、彼等のお蔭でホテルにある自動販売機とか売店の売上は伸びてるみたいだけど、僕らみたいな車を使っている者にとっては、邪魔で邪魔で。刑事さんが乗ってるって間違えられたのか、一回、囲まれちゃって身動き取れなくなった事もあるよ」
「そんな事も……」
「別荘地って言ったって田舎は田舎。滅多に無い大きな事件だから騒ぎになるのは仕方が無いけど、早く解決して欲しいよな」
意外な情報だった。
渡辺君が宿泊しているホテルは直ぐ近くだ。この店はホテルの裏手に面する細い道を通らないと来られない。報道関係者達はホテルの表に面する大きな通りを利用しているのだろう。だから店の周りは静かだったに違いない。
「珈琲美味かったよ。そうそう、レストランのオーナーが持ち帰り用マフィンのオーダー数を増やしたいって言ってた。それと、これ。バレンタインデー用チョコレートケーキの予約がもう、これだけ入ってるよ」
「うわ! ありがとうございます!」
「じゃ、また明日」
配達員から受け取った封筒の中には五十枚以上はあると思われる予約シートが入っていた。
「ホテル一件だけでこんなに……」
大切な人、大好きな人へ贈って欲しい。そんな願いを込めて作るケーキにこれだけの予約が入るとは本当に嬉しい。
でも、僕がこのケーキを贈った大切な人……。彼とは、もう一週間会えていない。声も聞けていないし、あの優しい柔らかなキスだって……。
「会いたいよ、渡辺君」
思わず封筒を抱き締めてしまった。
告白は唐突だったけど、想いは中途半端なものじゃない。僕のケーキ作りに対する考え方を変えたのは、高校二年の時に会った渡辺君だ。その想いを元に作ったのがあのケーキだし、デザインも味もイメージは渡辺君。そして、それの店頭販売開始日だって、渡辺君の……。
「会いに……行こう!」
本気の想いを伝えたい。今の僕は、そうする事しか考えられなかった。
時計はもう直ぐ午前八時を示そうとしていた。ホテルまで歩いて約十分程度。お客様には悪いけど、午前十時開店にすれば充分、間に合うはずだ。ほんの数分で良いから会って話したい。想いをぶつけるだけでもいい。
「行こう!」
自分を奮い立たせる様に言ってからエプロンを外した。
差し入れにマドレーヌとマフィン、紅茶のクッキーを持って行こう。これならケーキと違って持ち運びが楽だし、いつでも簡単に食べられる。
袋に詰めた差し入れを持ち、コートを着込んで外に出た。店の入口には「十時開店」の看板を提げておく。
雪は降っていないが、どんよりと曇った空が体感温度をグッと下げる。自分の心を反映した様な空模様に気持ちが暗くなるが、ギュッと手を握り締めて早足で歩く。
(会えるよね、きっと会えるよ)
そう念じれば実現するとでもいう様に何度も心の中で呟きながらホテルを目指した。
ホテルの裏側、駐車場から敷地内に入ると、県外ナンバーの車が何台も停まっているのが見えた。きっと報道関係者の物だろう。
表に回ると脚立やカメラを手にした男達が白い息を吐きながら、ホテルの入口を遠巻きにしていた。
「凄い……何人居るんだろう」
異様な雰囲気に圧倒されながらホテルに入ろうとした時だった。
「来たぞ!」
「捜査に何か進展は!」
「一言お願いします!」
「何か新しい物証は?」
場が一斉に騒がしくなった。
ホテル入口の自動ドアをくぐった直後、背後からカメラを持った男達が怒涛の様に押し寄せて来た。あっという間に僕はその波に飲み込まれてしまった。
(うわ! あ、危ない!)
報道陣から逃れようともがいているうち、エレベーターホールの先に男性の姿が見えた。
(渡辺君!)
スーツ姿の渡辺君だった。
その姿を励みに、必死にもがいているとホテルのボーイが助け出してくれた。
「皆様、お下がりください」
「お客様のご迷惑になりますので、外へお願いします!」
ボーイ達は必死に声を張り上げ、報道陣達をホテルの外へ押し出して行く。何とか助け出された僕はボーイに礼を言うのもそこそこに、ダッと駆け出した。
「渡辺君!」
「……!」
裏口から出ようとしていた渡辺君が足を止めた。振り返った顔は一瞬、驚きの表情になったが直ぐ厳しい物になった。眉間に皺が寄っている。細い眼鏡の向こう側の眼がいつも以上に鋭い光を宿していた。
「あ、あの……渡辺、君……」
その迫力に気圧されて僕は随分と手前で足を止めてしまった。近付く事を許さない、圧倒的な威圧感が僕の体をその場に釘付けにした。
「仕事中だ。ここには来るな」
「え?」
聞こえた言葉に僕は返す言葉を失った。
短く言い放たれた言葉はこの上無く非情で厳しい物だった。
「……」
スイッと背を向けた渡辺君は柔らかい絨毯の上を滑る様に進み、ホテルの裏口の方へ去って行った。
呆然と背中を見送る僕の視界に一人の女性が映り込んで来た。緩いウェーブが掛かった長い茶色い髪が綺麗な、スーツの似合うスタイルの良い女性だった。
彼女はエレベーターから走り出て来ると、何の躊躇も無く渡辺君の隣に並んだ。そして同じ歩調で去って行く。
「……渡辺、君……」
僕の手から差し入れの入った袋が滑り落ちた。軽い音を立てて床に落ちたそれと一緒に、僕の想いも奈落の底へ落ちて行った。
僕の想いは一方的だった。
渡辺君にとって大切な物。
僕にはそれが解っていなかった。
今、やっとそれが解った。
渡辺君にとって、今は仕事が一番大切なんだ。そして必要なのは、そんな渡辺君を支えられるヒトなんだ。
それはケーキ屋をやっている僕じゃない。
すぐ傍に居て公私共に力になれるヒトなんだ。
一瞬の出来事だったが、全てを僕に教えてくれた光景。
それが見えなくなっても、僕は暫くそこから動けなかった。
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