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3-3 夜の帳
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獲物を得られなかった俺は、家に戻ると再びカミュが残した書置きをじっと見入って、ため息を漏らした。ソファーの背にかけてあった俺のオーバーオールの膝は、すでにチェックの端切れで補修されていた。昨日は腰が痛いと休んでいたが、ベッドの中で縫っていたのだろうか。
寝室に行くと、カミュがさっきまでそこにいたかのような彼特有の甘い香りが漂っていた。ベッドメイキングされた皴一つない掛け布団やシーツ、枕は、カミュが几帳面で綺麗好きであることを表していた。俺は、とかく床にゴミなどが落ちているのは好かないが、ザツな方であまりそういう乱れについては気にしたり、直したりはしない。
カミュの残り香に誘われて、俺は吸い寄せられるようにベッドに横になった。四方八方にしわが出来るのも構わずにゴロンと横になった後で、上半身裸の汗まみれな上に手のひらなどを切っていたことに気が付いた。汚してしまうと一瞬焦ったが、甘い香りが鼻腔をかすめて、心地よくなってきてしまった。
ベッドのわき、カミュのいつも横になる方には、ノートが積まれている。床からちょうどベッドぐらいの高さまで、B5ノートが何十冊も積み上がっているのだが、これはカミュが図書館から借りてきた魔導書の写しや大切なことを記した勉強ノートとなっている。いつの間にこれだけの魔導書を読んでいたのだろう。俺は一番上のノートを手に取ると、ぱらぱらとページをめくった。このノートからも、スミレのようなほどよく甘い香りがする。流麗な草書体で呪文らしき古代文字と魔術用語を交えて書かれているため、一文も解読不能だった。俺にはカミュがとても遠い存在に思えた。
このまま日が暮れるまで、彼の匂いを嗅ぎながら心地よい眠りについてしまおうか。次第にまぶたが重くなっていく。
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気付くと、窓外は真っ暗となっていた。俺は目をこすり上体を起こして大きな欠伸をすると、首を左右に振って関節を鳴らしながらベッドから出た。手にしていたノートを元に戻し、ダイニングに行くと、時計の針はすでに6時を過ぎていた。
カミュ、遅いな。そろそろ帰ってきていいころだが……。
流石に腹が減り、食事の支度を始める。料理担当の相方がいないので、適当な男飯だ。イノシシが手に入らなかったので、先日買ってきたベーコンと卵を炒めて、フランスパンに乗せてかじった。カミュが日中に摘んできたと思われる、木苺やヤマボウシの実をノヂシャに乗せて、ビネガードレッシングをかけて食べた。甘酸っぱくて美味しいが、これではまるで朝食だった。これじゃ足りないと、昨晩のコーンスープにもう一度熱を通して味見する。まだいける。一人でスープをすすると、なんだかむなしく感じた。
酒、飲もうかな。俺は思い立ち、赤ワインをしまっている外付けの倉庫に取りに行く。戻ってきて、ワイングラスに注ぐも、気分が浮かずに飲む気になれない。赤い液体に自分の顔が映る。眉間にしわを寄せ、心配そうな顔をしていることに気付き、立ち上がった。
午後7時になろうとしていた。どうにもおかしい。
俺は薄い上着を羽織ると、ランタンを片手にふらりと家の外に出た。日はすでに沈んでいるものの、西の空はまだ暮れなずんでいる。そのまだ明るい方角にやはり沈みつつある三日月が見えた。
小屋は村の南東12、3キロほど離れていて、荷馬車だと荷駄の量にもよるが2時間ほどかかる。カミュは荷車をつけていかなかったので、騎馬ならもっと早いはずだ。速足で片道1時間前後、本を借りるだけなら、遅くとも6時過ぎには戻れるはずだ。一体どうなってる?何か事件に巻き込まれたのだろうか?
俺は三日月に背を向けて山を下り始める。山の傾斜より低い位置にあった月はたちまち姿を消したが、俺は目もくれず走るように下山した。荷馬車を山頂まで通すため、中腹の道は曲折しているが、轍は残っている。自分たちが村へ行くいつもの通路をたどりながら、焦りが増す。カミュに何かあったのだ。そうでなければ、こんなに帰りが遅いはずがない。下り坂なのに、俺は全力で走り始めた。ランタン片手にきついが、このペースで走り続けることが出来たら、村まで1時間はかからないだろう。それに、途中でカミュに会えるかもしれない。
だが、焦りは禁物だった。俺は何かの突起に躓いて、転んでしまった。暗かったために足元がお留守になっていたのだ。緩やかな坂ではあったが、前方に転がるようにして倒れこむ。再び、手のひらと腕に傷を負った。この俺が、こんなところで馬鹿みたいに転ぶなんて。
土を払いながら立ち上がると、俺は絶句した。目の前にあったはずの村への通路が消えていたのだ。かろうじて火が消えなかったランタンで照らしながら前後左右見回しても、下草ばかり生い茂る森の中に俺はいた。頭上の空は木々の枝葉に隠され、方角もわからない。
何が起こったのか?目がおかしくなったのか?
少し歩けば、轍の跡が現れるかと思ったが、進めども進めどもずっと森から抜けることができない。暗いのでよくわからないが、同じところを何べんも巡っているような、薄気味悪ささえある。
「カミュ……カミュー!!」俺は叫んだ。
ひょっとして、いつもは何の変哲もない俺たちの山の、謎深き森にカミュも彷徨ってしまっているのではないか?彼も俺の名を呼んでいるのではないか?
だがしかし、耳を澄ましても鳥の鳴き声すらしない、静寂の夜だった。
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