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15-1 出立

***  明かりのない部屋で男はすうっと目を開けた。夜明け前だ。  むくりと上体を起こすと、男の胸に置かれていた少年の細い腕がするりと落ちた。規則正しく寝息を吐く少年の顔は、暗くて定かではない。日の出の刻になればカーテンの隙間から射した光に照らされて頬も髪も美しく輝くことだろう。  男は少年の髪にそっとキスをすると、ベッドを出てそそくさと出発の準備をする。朝食なんて作る余裕などない。なるべく音を立てぬよう身支度を整え、キャスケットを被る。同じく帽子掛けにかかっていた六芒星のお守りを手に取って胸ポケットに収めた。準備万端だ。あとは、彼を起こさぬように馬を静かに引いて、ニワトリに啼かれないように小屋を出発するだけだ。  扉を開けて、小さな厩に行くと馬はすでに目覚めており、主人を見てヒンと鳴いた。男はとっさに口元に指をあてた。仕草を理解したのか馬は怪訝そうに押し黙る。鞍を装着し、少しの距離手綱を引いていこうとする。が、物音に覚醒した雌鶏の第一声が森の中にこだました。男は慌てて小屋を振り向く。しばらく佇んでいたが、小屋から飛び出す影はない。ほっとして、再び歩みだし、決して後ろを振り返らなかった。  窓の奥には褥にて泣きぬれる少年が一人、布団に残る男の薫りを抱きしめていた。 *** 「アレンさん」 「さんを付けるなと言ってるだろ」絡み合う手をぎゅっと握って戒める。 「僕のこと、怒ってる?……聞いたんでしょう、ミセス・ケベックに。かぼちゃのこと」  昨夜のブロージョブで数日ぶりに俺自身を丹念に融かされて、大量に吐精してしまった。それもあれの口の中にだ。俺が引きはがそうとしても、カミュはじゅるじゅると吸い付いてきて、白濁を出し切るまで離れてくれなかった。そうしたいならすればいい。諦めて快楽の境地に至ると、カミュは口元を拭いつつ俺の眼前でほくほくと満面の笑みを浮かべた。  事を終えて互いに横になりほっと息をついていると、不意に前日のことを訊かれたのである。 「……なんとなく、わかっていたような気がする」 「そんなの嘘だね。君はあの話が出るまで、すっかり忘れていたじゃない」と、くすりと笑われる。  やつの言う通りだ。俺は表彰台に上がれなかったときは落ち込みもしたが、立て続けに起こった事件や依頼のことで頭がいっぱいで、大会のことはどうでも良くなっていた。じれったいようなこそばゆいような何とも言えない妙な面持ちでカミュを見やる。 「あの人はただのご婦人だと思ってたけど魔法に詳しくて意外だった。だけど、君が怒らないことの方がもっと意外……」 「怒る?……どうして?」 「だって、君は僕のせいで優勝を逃したんだもの。怒って当然だよ」  競技で1番を取ることが最終的な目的ではなく、取りたかった賞金についてもそこまでの執着があったわけでもない。そして、ケベック夫人に諭されたようにカミュの気持ちを推し量ると怒る気にはなれないので、俺は茫然とカミュを見つめた。 「意味が分からないな」 「……アレンって本当に不思議な人」カミュは身を俺の方に捩ると、すでに繋がっている手ではない方の指を俺の胸に這わせる。 「それより、……もう邪魔しないでくれ」 「ジャマ?」指を止め、カミュは目を見開いた。 「ああ。俺は誰のものにもならない。……お前の心配はいらないよ」  もう片方の手でカミュの止まった手を取ると、己の頬へもっていく。日頃の家事で手は荒れていたが、彼の年頃であれば本来きめが細かく瑞々しいはずだ。山の生活は不便が多い。食料の買いだめをしなければならないし、村との連絡手段もない。川から手桶で飲料用水を汲んでくるのも彼の仕事になっている。健康状態にも不安があるし、医者の常駐する村や町で暮らせたらと思う。  これ以上の苦労させたくないと、俺は手の甲に幾度も口づけをした。 「あ……あ……」  カミュは声を漏らし、切なげに目を潤ませて俺の方につつと寄ると額にキスをしてくれた。  村に向かいながら昨夜のことを思い返すと、アレンの心に罪悪感が広がり、それと同時に功名心が首をもたげた。それらは恋人に正直になれないことの罪悪感と、彼の人のために名を上げたいとする功名心だった。二つの感情は背反するようでいて、全て愛しき者のために存するのであった。 ***  こんがり焼けたトーストに自家製のいちごジャムを塗って齧っていると、遠くの方で馬の嘶きが聞こえた。レタスに乗ったトマトごとフォークで刺して口に運ぶ。新鮮な酸味が口に広がって、カミュは喉を鳴らした。  昨夜の濡れ事が遠い過去のように思えてしまうのはなぜだろう。あんなに身を挺して尽くしてあげたのに、愛する人はすぐに僕の腕からすり抜けてしまう。小さな鳥なら籠に閉じ込めておけるのに、巨躯の闘犬は檻を壊し、囲いをなぎ倒して危険な世界に飛び込んでいく。表面的には彼の出立は静かだったけれど、強固な檻や足枷のはずだった僕の思慕や情念はこれっぽっちも役に立たなかった。  一時だって離れたくないのに、あの人は僕を置いて出て行ってしまった。しかも、  ——今日のことは何一つ話してくれなかった……。  マール・キルトンとアレンの話によれば、正午に町の道場で真剣試合が行われるという。一昨日片手剣を握ったばかりだというのに、熟達の剣士たちと勝負するなんて馬鹿げている。  聞けば、アレンはものの2時間で片手剣の基本形と受け流しを完璧にマスターしたという。当然だ、以前はドラコの冒険者だったのだから。二年ぶりではあるが、戦いに慣れた体は水を得た魚のように健闘することだろう。  僕が今までしてきた努力は一体何だったのか?隠していた重大事が明るみになれば、彼は大いに傷つき苦しむことだろう。未だにアレンにかけられた呪いのことも打ち明けていない。しかし、カミュは慌てて首を振った。  ——あのことは、決して言ってはならない。  おくびにも出してはならない。今まで彼に知られて、最悪な事態にならなかった覚えはない。以前は自分が幼くて、彼を制御したり、事態を収拾したりする術を持たなかったけれど、今回はもう好きなようにはさせない。僕だってもう子供ではないし、体を開かれた代わりに彼の心を捉えている。と、思う。  そう……アレンはかつて多情な人だったので、巧言で体を弄ばれている可能性が全くないとは言いきれない。けれども、あの人は生来猥雑な下心や狡猾な頭脳の持ち主ではないし、多少なりとも情けをかけられているのは確かだ。  彼を支配して呪いの発動条件を満たさないことが、僕に与えられた使命なのだ。

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