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*-11 ゆで卵
翌朝、僕は開眼一番にドキリとした。眠っている僕のおでこにアレンがすっと口を近づけており、髪を優しく撫ぜていたからだ。目がパチッとあうと、アレンは手を止めてすっと上体を起こした。微笑んでいた顔も背けて、落ち着かなげに頭を掻く。
——アレンさんは僕に何をしようとしたんだろう。
訊いていいものか戸惑っていると、アレンはナップサックをごそごそと漁り始めた。またあの燕麦の入った革袋と水筒を取り出すとそそくさとテントを出てしまった。
「今の……なんだろ」と、僕は呟いてテントから顔を出すと、大きな背を向けてアレンが朝食を作っていた。
誰かに顔を近づけられるなんて、怒られて耳をねじられたり、胸倉をつかまれたりしたことしか思い当たらなかったので、壊れものを扱うかのような繊細な愛撫に僕はどぎまぎし、一方でそこはかとない不安を感じた。
「……アレンさん」
ぴくっと肩を震わせ振りむいたアレンの顔は何ら変わった様子もなく、僕を見て言った。
「着替えてきたか。朝飯にしよう。昨日と同じだが……」
オートミールが二人前出来上がっていた。他の者たちは、昨日の兄弟が仕留めた子イノシシがあったので、夕飯の残りとして食べていた。アレンが射殺した親の方は流石に大きくて運べなかったのだ。三十人弱の二回の食事で猪肉は尽きてしまったようだ。腹を空かせた子どもたちが、僕たちを遠目に見つめていた。強請ればアレンが燻製肉をくれるんじゃないかと思ったようだが、テントを破った一件で疑われているのではないかと恐々としていたため、誰一人近づかなかった。
僕はあったかいオートミールをすすりながらお椀越しにアレンを見た。彼は子供たちの視線を感じて、ふんと肩をいからした。
「アレンさん、美味しい」
「そうか、良かった。俺は料理が苦手なもんでな。熱は下がったようだが、消化がいい粥の方がいいだろう。カミュ」
「ありがとう。アレンさんはお肉食べないの?」
「朝から肉はいいかな。今、ゆで卵を作っている」
粥を作り終えた飯盒で今度は卵を二つ茹でていた。僕が湯気の立つそれを覗くと大ぶりな卵が二つ沈んでいた。鶏の卵だということはわかるが、高価なので食べたことはない。
出来上がると、アレンはそれを水筒の水に浸して、あつっと手を持ち替えながらも慣れた風に殻を剥いた。全てを剥がされた卵はぷるんと艶やかに輝いていて、彼がナイフを入れると鮮やかな丸い黄身からぷっと柔らかい黄色がゆっくり垂れてきた。
「半熟だったか」
アレンは大きな手に二つの半球を挟んで持って、小さなガラス瓶に入っていた塩を振りかけて僕に手渡した。
「すごいや!卵なんて初めてだよ!ありがとう、アレンさん。それにしても、よく割れなかったね。昨日はあんなに歩いたのに」
「まあな。卵専用のケースがあるからな」
アレンは懐から四角い編み籠を取り出してパカッとフタを開けると、卵の形に編まれた半球が四つあって、まだ二つの卵がそこに収まっていた。綿が敷かれていて、ちょっとやそっとの衝撃では割れないように工夫されている。
「その籠、卵が入ってたんだ。モリールで貰ったの?アレンさんの荷物少ないのにいろんなもの持っているんだね」
「俺はテリュスに行くのに必要なものだけ持っているからな。隊商となるとそうじゃいかないだろ」
「うん。みんな大荷物だよ。食べ物は現地調達したりでいつもひもじい思いをしているけどね。でもテリュスに着いたら、旅は終わるって」
「旅が終わる?どういうことだ、カミュ」
「防具職人に高値で売れる商品があるんだって。相当いいものだから、この旅が終わったら遊んで暮らせるって頭が言ってたんだ」
サヌハンに着く前、ほとんどのものが寝ている夜半 に、頭が父に話しているのを立ち聞きしていた僕は、アレンにそのまま話した。彼は訝しそうに頭をひねって顔を顰めた。
***
数日、ジャングルを歩き通しだったが、魔物や動物に襲われることはなかった。ようやく開けたところに出たと思ったら今度は池沼 が広がっていた。泥土に雨水が溜まって淀み、水草や藻が茂って青緑色をしている。点在する沼を囲うようにガマやヨシなどの水辺の植物が広がっており、しゃがむと姿が隠れてしまうほど背が高かった。時折ぼこっと火山ガスの泡が上がって、木道を行く皆を驚かせた。濁った水面を覗き込むと自分のものとは思えない歪んだ顔がのぞき返しており、薄気味悪かった。
「湿地を抜けるのに木道があるのに感謝するんだな」
「なんであるの?」
やはり、列の後方で二人肩を並べながら、僕はアレンに訊ねた。
「なんでって、レメルグも隣の村との付き合いがあるからな」
「隣の村ってモリール?」
「いや。レメルグからさほど離れてないところに村がある。……俺達の通過する経由地点は隣同士の村ってわけじゃないぞ。お前たちの資質で危険無く目的地に到達できるよう、適切な休憩場所を選んでるのだ」
「適切ねえ」中年の男が僕たちの会話に水を差した。
「何か?」アレンは目を細めて男を見下した。
彼は父の従弟で顔はさほど似ていないのだが、僕への当たりは父以上にひどかった。人のいないところで首を絞め上げられ、盗みをして来いと脅されたことも何度かある。大人の窃盗は罪が重いが、子どもは指を大鉈で切られるくらいで済むからだという。恐ろしくて縮み上がってしまった僕は、当然盗みなど働いたことはない。その代わり男が約束を忘れるまで、身を潜めていた。大酒飲みの彼は酔潰れると何もかもすっかり忘れてしまうのだ。
その彼が昨晩、夕食を取っているときに僕の水筒を勝手に飲んだというので、アレンと口論になった。アレンが用を足すために席を離れているとき、男は僕の背中を蹴とばして、水筒を奪ったのだ。焚き火に頭から突っ込んだ僕は危うく顔に火傷を負うところだったが、幸い火が弱まっていたのと、アレンが用意していた濡れタオルが手元にあったので、慌てて顔を覆った。戻ってきた彼が男と口論の末、掴み合いの喧嘩になり、大人たちが束で二人を押さえつけて大事にはならなかった。
もみくちゃにされたアレンは激昂に鼻息を荒くして僕に近づくと、有無を言わさずに抱きかかえた。そして、テントをたたんで荷を背負い、彼らの目の届かないところに移動した。
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