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第3話
車椅子から降りられない自分用にと、低く設置された洗面台の前で鏡を眺める。
もうそろそろ髪を切ってもらわなくては。ショートカットにしていた髪は伸びきっており、前髪が目にかかって鬱陶しい。
何とか顔を洗い終えると、仁がキッチンから顔を出してきた。白い長袖のカッターシャツとベージュのパンツがよく似合っている。
「朝食、パンの上にチーズを乗せるか、ハムを乗せるかどっちがいい?」
「どっちも、は、駄目かな」
「お、今日は食欲があるな。いいことだ」
その緩ませられた口元に、胸が高鳴るようになってしまったのはいつからだろうか。
――抱かれるようになってから一年後くらいだったかもしれない。その行為がとても照れ臭くなったから……いいや、元々彼の存在はとても輝いて見えていたのだから、もしかしたら出会ってすぐに、好きにはなっていたのかも。ただ、それに気が付くのに時間がかかり……色々、あって。色恋を考える心の余裕もなかったし。
一旦部屋に戻って寝巻きから部屋着へと着替え始める。どちらも車椅子生活を送る人用にとデザインされたものだ。黒いチノパンはとてもよく伸びる生地で、尻の部分だけ縫い目がなく、そこに掛かる圧力を分散させてくれる。ウエスト部分には緩いゴムが入っていて、股上が深い。こういう服はとても便利だ。車椅子からずり降りた際などに、その動作へつられてしまうズボンから下着が見えてしまいがちなので、それを防ぐデザインにはいつも助けられている。
長袖のブイネックティーシャツへ袖を通す。グレーのそれはお気に入りだ。着る服は大体が仁の用意するものなのだが、着心地がよくて動きやすい。デザインだって洒落ており、その気遣いがとても嬉しい。しかし、この髪型ではいくら着る服のデザインが洒落ていようとも、それぞれの醸し出す雰囲気がちぐはぐで、伸びっぱなしであるという髪が逆に目立ってしまうような気がする。やはり髪を切ってもらうべきだろう。
車椅子を動かして、キッチンへと移動する。
少し低めのテーブルに用意された朝食へ手を合わせた。
牛乳を飲んでいると、仁が前の席に着いた。
「内職は昨日終わったんだろう? 俺も昨日、納期の仕事を終えたから今日は、二人でのんびりとするか」
「いや、たまには仁の好きに過ごしたらいいよ」
ふっ、と苦笑された。
「俺が、お前と一緒に過ごしたいんだ。嫌か?」
「そんなことは……」
恥ずかしさと、申し訳なさで胸がいっぱいだ。もしも、状況が違っていたらきっと――仁は、俺とこうはならなかったはず。
彼に抱かれると頭の中が沸騰し、弾ける快楽で身体が自由に羽ばたくような錯覚を受ける。だから、俺としては仁とこうして二人きりで過ごせることは嬉しいし、甘いキスをされ、毎日のように可愛い、好きだと言われることにも胸がきゅんとする。
ただ、この動かぬ足が。思うようにならぬ人生へ道連れにしてしまったという罪の意識が、仁へその喜びを素直に表すことを止めさせる。それなのに、これ以上彼へ依存してはならないとそう思っているのに、どうしても仁という存在を手放せない己の、狡猾さ。
大きな手に頭を撫でられた。
「食べ終わったら、響の好きなオセロでもやるか」
「その前に、髪を切って欲しいんだけど……」
「そういえばまた伸びてきたな。今度はどんな髪型にする? 俺とおそろいにでもするか?」
「俺がベリーショートにしたら、ちんちくりんにしか見えなくなるからやめてくれ」
顔を顰めると、からからと笑われた。
ああ、どうしよう。こんなにも――好きになってしまって。本当に好きならば。愛しているならば。相手の幸せを考えて、突き放すことが正しいのだろうに。
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