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第8話

*  バリアフリーに改築した家から出ることにさほど苦労はしないのだが、それでも、玄関までやってくることが精一杯だ。  一人で外へは出られない。犯人を恨むことはもう疲れ果ててしまったが、その、押してきた手に対する恐怖感がいつまでも消えてくれない。  玄関からぼんやりと、見える歩道を眺める。  もう、十年だ。十年間も、仁は甲斐甲斐しく俺の世話をし続けてくれている。  そろそろ開放しなければならないと、自分でもわかっている。お互いが、お互い荷物になってしまっているのではないだろうか。俺の存在は仁にとってもちろんそうなのだろう。そして、仁の存在も、俺にとって……罪悪感という、荷物になっている。  苦しい。穏やかな日々を感じるたびに、そう思う。いっそ仁が全く俺を愛さなければ――普通の兄弟のような関係だったならば、こうまで罪の意識を背負わずに済んだかもしれない。そして、俺も、仁へ恋心を抱かずに……抱いたとしても、それへ気づかずにおられただろう。  どうすればいい。どうしたら、この悪循環から抜け出せるのだ。一度握ってしまった手を離すのは、怖くて。恐ろしくてたまらない。  助けてくれとはもう願えない。神様には散々祈ってきた。足を動かしてくれ。これは夢だと誰か言ってくれ。もう二度と土を踏んだ感触を味わえないなんて。当たり前だと思っていたことが出来なくなり、何度も何度も、神様を心の中で呼んだ。でも、そんな願いは聞き入れられなかった。だから……あれは、誰だろうか。  黒いスーツを着た男、か? 顔立ちから性別が判断できない。腰まである長い髪は、艶やかな黒い色をしている。切れ長の二重目蓋が涼しげだ。灰色の瞳の色と、西洋人形のように整った顔立ちが、その人物を日本人だと感じさせない。  身長は百七十五センチくらいだろうか。華奢だ。白い手袋をはめた両手で、そこに収まるくらいの灰色をした、小さな箱を持っている。  歩道からこちらへ向かって歩いてくる。門扉を何の躊躇いも見せずくぐり抜け、目の前までやって来て、立ち止まった。 「あ、の? うちに何か御用ですか」  声をかけると、微笑まれた。 「叶えて欲しい願いが、あるのではないですか?」  怪しい。宗教関連だろうか。 「ないです」  車椅子を反転させようとしたのだが、目前に箱を突き出された。 「本当はあるでしょう? 嘘だと思ってこの箱へ、願いを吐き出してみなさい。願えばそれを二つだけ叶えてくれる箱ですから」 「そう言われて素直に従う人間がどこにいると? 怪しすぎますよ。うちはそんなに裕福でもないので、宗教だとしてもお布施は払えません。帰って下さ――」 「開放、させたいのでしょう? 自分の重石と、兄の重石を」  ぎくりとした。何故それに気づかれたのか。  恐々顔を見つめてみると……灰色の瞳の奥に、何か、蛇のように蠢くものが見えた。 「あ、んた……何者、なんだ?」  いや、そんなわけはない。きっと気のせいだ。蠢いたそれも、微笑んだ唇の端に、とても鋭い牙のような犬歯が覗いたことも。 「その問いかけに答えることは、必要ですか? 貴方にとって、叶えて欲しいことは別にあるのでは?」  背筋がぞっとした。いないとわかっているのに、仁の姿を目で探してしまう。 「貴方の、願いは? このままの生活を送って満足ですか? お互いを縛りあう関係は、さぞや苦しいことでしょう」  さ迷わせていた目が、箱へ、吸い寄せられる。  何の冗談なのだろう。夢でも見ているのか。  ――夢。そう、夢かもしれない。いつの間にか寝てしまったのかも。 「夢ではありませんよ」  一瞬息が止まった。心を読まれているのか、それとも、顔に出てしまったのか。

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