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第22話

夢を見ていた。 全てが終わった夜と、全てが始まった夜の。 音楽は無限だと、彼は言った。 ならばあの日の後悔と挫折も無駄ではなく。 無意味ではなく。 例えこの手に才能がなくても、音楽に愛されていなくても。 音楽を愛していいのだと、此処にいてもいいんだと思えるような未来を見せてくれたあの人と。 一緒に、1人では辿りつけないような高いところに立って。この先もずっと音楽を続けていけるのだと訳もなく信じていた。 平穏が崩れるのはいつだって突然だって、知ってた癖に。 目を開けると、一面真っ暗闇だった。 僅かな息苦しさと、顔の上半分に何かが乗っている感触に大まかな状況を察して俺は手探りでそれに触れる。 「りーぃー、おはよ……いまごはんにするから……」 人の顔にどっしりと顎を乗せたりぃの耳が、その言葉を聞いてぴんと立った。 朝起きたら自分の朝ごはんと一緒にりぃの餌の準備をして。カフェオレを一杯飲んでから、小学生の通学時間に被らない時間を狙って散歩に出かけるのが今の俺の日課だった。だからいつもと同じように、玄関で尻尾を振りながら待機しているりぃの首に"彼"から預かっている夕焼け色の首輪を嵌めて、リードに繋がる金具を付け外へ出た。部屋の鍵をかけアパートを出ると、そこですぐにりぃの足が止まる。――これも、いつも通りだ。 合わせて俺も立ち止まる。 りぃはアパートを振り返り、じっと二階の一部屋を見つめていた。数ヶ月前までりぃと"あの人"が住んでいた部屋だ。犬はそんなに目が良くないと聞いたけれど、それでもそこにいる筈の主人が出てくるのを待っているみたいに黙って部屋のドアを見ている。 「……さみしいよなぁ」 思わずそう呟くと、こちらを見上げたりぃが小さく「くぅん」と鼻を鳴らした。その悲しそうな目を見ていられなくて、俺はりぃの頭をぽふぽふと撫でる。「行こう」とリードを引けば、りぃはのんびり歩き出した。 りぃの主人で、俺の相棒兼恋人である不知火伊織さんが此処に帰ってこられなくなったのは、忘れ雪の降った4月3日の夜のことだった。 去年、一年をかけてアーティストの世界一を決める大会『The_Sings』で俺たちは優勝した。前年度の王者を越えて唯一ステージに残った伊織さんは今までで一番きらきらしていて。顔を隠すフードの下で伴奏者として彼の歌を世界中に届けられた感動に浸っていた俺を、いきなり振り返った伊織さんがステージの中央に引っ張り出した。急にスポットライトの真ん中に立ってパニクる俺の肩を捕まえ、流石に少し息を切らした伊織さんは大勢の観客の前で小さくこう言ったのだ。 「ありがとう、お前のおかげでここまで来た」 「でもまだこれで終わりじゃない」 「2人でならもっとずっと先まで行ける」って。 その言葉が、思わず涙が出るほど嬉しかった。 っていうか本当に涙ぐんでしまっていて、うなづくのがやっとで。 また翌年の、『The_Sings』。史上初の2連覇を目指し、俺たちは予選に挑んで。初戦前夜、つまりは4月2日の夜、それは起こった。 その時俺は伊織さんが所有するアパートの一階にある自分の部屋で、りぃと伊織さんの帰りを待っていた。いつもは一緒に事務所から帰るのだけれど、その日は打ち合わせがある予定で俺の方が先に帰っていたのだ。だから晩ごはんの用意をして、伊織さんが帰ってくるのを待っていた。 待って、待って、待って。今日は車じゃなくて徒歩で行ったから余計に時間がかかっているのだろうか、なんてどうでもいいことを考えて。 夜10時を回ったところで、携帯が鳴った。伊織さんからじゃないかって慌てて画面を見れば、発信者は社長になっていて。疑問に思いながら電話に出た瞬間、珍しく焦った声で社長は言った。 「伊織が車に轢かれて、意識不明の重体だ」 マネージャーさんが迎えにいくから、とか。病院名とか。色々聞いた筈だけれどなんにも頭に入ってこなかった。無意識に理解を拒んでいたのだろう。それからのことは、あんまり覚えていない。 ただ駆けつけた先の病院で、ガーゼや包帯塗れになり呼吸器と点滴を繋がれた伊織さんが、目に痛いほど白いベッドに横たわっている光景だけが記憶に焼き付いている。 あの綺麗な夕焼け色の瞳は、伏せられたまま。 伊織さんを轢いた車の運転手は俺たちが負かした前年度王者の熱狂的なファンで、轢き殺そうと思ってやったと証言していることを知ったのは、それから1週間以上後のことだった。 気がつけば、俺の歩くスピードは亀のように遅くなっていて。反対にテンションが上がってきたのか足取りが軽やかになったりぃがこちらを振り返った。珍しくピンと張ったリードが俺を「立ち止まるな」って引っ張ってくれているみたいで、俺よりもずっと寂しくて悲しい筈の忠犬に合図を送る。 それから、いつも行く海岸に向けて走り出した。

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