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第29話
ナースステーションに軽く頭を下げて、208と番号の振られた病室のドアを開ける。
そこにあの赤色はいなかった。
そのとき、ちょうど通りがかった男の看護師さんが笑って告げる。
「不知火さんなら地下でリハビリされてますよ」
かつ、かつ。と。
リノリウムの床を杖先が叩くリハビリ室。
俺とルカさんが部屋の入り口からこっそり覗くと、作業療法士さんの横で伊織さんが松葉杖を操っていた。初めて見た時よりも滑らかな動きだ。両足にきちんと体重が乗っているのが、素人目に見てもわかる。
順調そうだな、と小声で呟いたルカさんに、そうですねとうなづいた。確かにリハビリ自体は拍子抜けするほど円滑に進んでいる。世間じゃ天才だなんだと言われてはいるが、元々あの人は努力家なのだ。苦労もなく手に入れたように見える実力も実績も、本当は血が滲むような努力を経て手に入れたもの。だからこそ、
――それでは手に入れられないものを、どうやって求めたら良いのだろう。
「あ、気づかれた」
ルカさんの声。
トリップ仕掛けていた思考がふいに引き上げられて、俺は顔を上げた。視線の先で、こちらを見た伊織さんが驚いたように目を見開いていた。それから気が抜けたようにふにゃりと笑って、唇が動く。
“ひさしぶり”
その言葉に、声は無かった。
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