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第30話

あの事件が伊織さんから奪ったものは大きい。 世界大会2連覇と自由に動かせる体。それから、もう一つ。 病院に運ばれた翌朝、奇跡的に命に別状は無く後遺症も残らないだろうというお医者さんの診断に俺たちは胸を撫で下ろした。もちろん犯人への怒りが消えたわけではないし、良かったなんて絶対に思えないけれど。それでも生きてさえいれば、伊織さんなら何度だって立ち直れるはずだから。 けれどそんな淡い想像よりずっと、現実ってやつは残酷だった。 麻酔から目覚めた伊織さんは、ベッドサイドから覗き込む俺の姿にふっと息を吐いて。力無くこちらへ伸ばした左手で俺の頬を包むと、何かを伝えようと口を開く。それから、まるで高いところから突き落とされたみたいに、ゆっくり目を見開いたのだ。 異変に真っ先に気がついたのは、社長だった。情け無いことに俺は現状を理解出来なくて、伊織さんの左手を握りしめることしか出来ず。震える右手で喉を掴み俯いた伊織さんにかける言葉を持たなかった。 駆けつけたお医者さんは診察を終えるとこう言った。 “失声症です。おそらくは心因性の”、と。 喉や肺に異常があるわけじゃあないし、また話せるようになることは十分考えられる。けれど心因性――心の問題だからこそ、具体的な対処法はない。もしかしたら一週間くらいで戻るかもしれないし、同じくらいの確率で、数年以上かかる可能性もあるのだと。 涙は出なかった。 俺なんかより伊織さんのほうがもっともっと辛いってわかってたから。ただ悔しくて、許せなかった。こんな理不尽なことってあるだろうか。よりにもよって伊織さんから、声を――歌を奪うなんて。 そんな風に唇を噛んだ俺の頭をぽんぽんと撫でて、伊織さんは笑っていた。今まで見た中で一番悲しくて苦しそうな、笑顔で、 あの表情を見てからずっと、俺の心臓の奥には言い様のない不安が渦巻いている。

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