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第31話
『わざわざありがとうな』
慣れた手つきで端末を操作した伊織さんが、液晶に表示させた文字をこちらに向ける。
病院の屋上には誰もいなかった。その場所で、俺たちは端に備え付けられたベンチに2人並んで座っている。あの糖分のかたまりみたいな飲み物は伊織さんの手の中にしっかり収まっていた。お医者さんに呼び出されたルカさんが別れ際に手渡していったからだ。盛り付けられたチョコチップ塗れのクリームを、彼はスプーンで器用に掬う。
「好きですよねぇ、それ」
『美味いよ
甘ったるくて。食べる?』
「じゃあ、一口だけ。……ん。やっぱ甘い」
『みんな元気にやってる?』
「えぇ、まぁ。テオさんとルカさんが頑張ってくれてますから、それなりに。りぃはこないだソフトクリームに突撃しました」
『甘いもの好きだからなあいつ』
「飼い主に似たんでしょうね」
『柊は弾いてないのか?』
「――……、弾いてますよ。鈍らない程度に」
あぁ、失敗したかもしれない。そう思った。
今の返事で良かっただろうか。
伊織さんを急かすようなニュアンスを含んでいなかっただろうか。心配、させてしまってないだろうか。
茜さんが、俺のことをずっと心配してくれていることは知っている。自分の方がもっと大変な癖に。だからせめて、大丈夫だって伝えたかったのに。
『そっか』
そう打って、伊織さんは端末を置いた。
青い空を見上げるその横顔に憂いは見られない。まるで何かが吹っ切れたような――諦めてしまったような、そんな柔らかな笑みを浮かべている。
よくわからないけれど嫌な予感がした。
足場を失ったような、そんな気分。
気付けば俺は、伊織さんの手を握りしめていた。
それを見て彼は困ったように笑う。
――決して、握り返しはせずに。
『色々とごめんな
りぃの世話もしてくれてるんだろ』
「謝らないで、下さいよ。俺が好きでやってるんですから」
『優しいな柊は
俺の相棒がお前で良かったよ
あの時は、こんなつもりじゃなかったんだけど』
「伊織さ、」
『いい加減にしないとな』
だめだ。言わないで。お願いだから、それだけは。
そうしたら、俺はいつまでだって待っていられるから。
『前から考えてたんだ』
その指先が端末の上を滑るのを、俺はもう見ていられなかった。情けなくも縋り付くみたいに握った手に力を込めることしか出来ない。
恐れていた言葉だった。伊織さんが事故に遭ってそれからずっと、こんな光景を想像しては怯えていた。
だけど伊織さんは、優しかった。優しくて、残酷だった。
『引退しようと思う』
あぁ、世界の終わる音がする。
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