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第32話
多分、運命なんかではなく。ただの偶然だったのだろう。
二度と訪れることはないと思っていた母校からの呼び出しに応じる気になったのも、ついでに校内を見学して行こうかと思い立ったのも。――ピアノの音が聞こえたことも。
けれど、覗き見た音楽室で。ピアノを弾くその姿を見て。
声をかけたのは、偶然なんかではない。
あの瞬間、はっきりとわかった。
俺は彼の音楽を探して生まれてきたんだ、って。
“不知火伊織”という名前と、「父に似ている」と言われたこの声が両親の遺してくれた全部だった。
遺影の中の2人は優しい笑顔を浮かべていて、だから自分もそうするべきなんだと自然に学んだ。そんな風に作った笑顔を見て祖父母は泣いていた。けれど、他の表情の作り方を知らなかった。
6歳の頃、祖父の友人だった仙崎社長から音楽を貰った。うたを歌うのは楽しくて、幸せだった。
ある日“Mr.Music”っていう居場所が出来た。誰かといっしょの音楽がひとりよりずっと楽しいって、教わった。
それからしばらくして、家族が出来た。ふわふわで温かな小さい命。好きだった花の名前から、Liliyと付けた。彼女はいつだって、俺の側にいてくれた。
相棒が出来た時、生まれて初めて自分を褒めてやりたいと思った。あの日声をかけたこと、音楽に誘ったこと、出会ったこと。その全てを。ステージの上はあいつの音を聴く特等席だ。今までよりずっと、音楽が好きになった。
気づけばこんなに沢山のものを色んな人から貰ってきた。空っぽだった手のひらは、好きなものであふれかえっている。――もう十分だ。そろそろ満足するべきだろう。これ以上を、望んではいけない。
20歳まで生きてはいないだろうと思っていた。なんの物語性もない人生を送っていくのだと思っていた。だけど俺は幸せだった。幸せ過ぎるほどに――幸せだった。
俺はこのまま沈んでいくのだろうけれど、柊を一緒に溺れさせるつもりはなかった。
声を失ったいま、この手を離せばきっともう二度とあの場所には戻れない。俺の音楽はここで終わる。それは少し寂しいけれど、でも全てを失うわけじゃない。
一ノ瀬柊の音楽は残って、これから先も続いて行く。
それで十分だ。
だから俺は、あきらめることを決めた。
大好きだった音楽を捨てることになったとしても。
――この手を離してやらなくちゃと、思ったのだ。
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