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第38話

ルカさんに支えられるようにして展望台へ上がってきた伊織さんが、眩しそうに目を細める。それぐらい今日は良い天気だ。絶好の――ライブ日和。 そんな伊織さんを見下ろすように、展望台の2階を陣取った俺はぐるりと周りを見渡した。普段なら観光客で賑わっているこの場所には、ルカさんが駐車場に戻っていった今、俺と伊織さんの2人きり。 そこで伊織さんは俺の持つ鍵盤ハーモニカに気がついたようで、ゆっくり目を見開いた。その様子が今朝のりぃとよく似ていて、俺は小さく笑い、フードを外す。 広がった視界には、青い空と海。病院の屋上なんかよりずっと大きくて、広い景色だ。 思い出す。 父と決別した夜。 伊織さんと出会った音楽室。 再会した臨海公園。 その歌声に魅入られたレッスン室。 初めてのライブ。 全てが始まった、あの朝を。 思い出す。思い出す。思い出す。思い出す。思い出す。 ここにある。ちゃんとぜんぶ、残ってる。 だからそれを片手5本の指に託して、俺は息を吸う。 ねぇ、伊織さん。 俺の言葉は薄っぺらくて、無力で。あんたを支えることなんてできやしない。だから。 言葉じゃない方法で伝えるよ。 貴方の愛した、俺の音で伝えるから。 だからちゃんと、聞いていて。 そうして俺は、鍵を押し込んだ。 初めて2人で演ったあのライブを、網膜に思い浮かべながら。 万年運動不足な俺の肺活量は大したことない。だから、グランドピアノのときよりもキーボードのときよりも、薄くて軽快な音が響いた。これで良い。ここにいるのは俺たち2人だけなのだから。他の誰のためでもなく、俺と伊織さんのためだけの音楽だ。 途切れ途切れの旋律をなんとか繋げて形にしたのは、平井堅さんの『POPSTAR』。俺の音楽に歌詞はないけれど、きっと届いた筈だ。込めた願いも、重ねた想いも。 昔から好きな曲ではあったけれど、弾いたのは実質これが初めてだ。ほとんどメロディラインだけの拙い演奏。それでも、この曲が良かった。 貴方は俺の光なんだって、伝えたかったから。 勇気を出してうっすら目を開ければ、透き通るような空と、遠くまで続く海が見える。もうすぐ短い秋が来て、冬になって雪が降り、その後に春が過ぎて。俺と伊織さんの出会ったあの季節が来年もやってくる。 それだけでいいと思えた。 それだけで俺は十分幸せだったんだ。 演奏を続けながらちらりと伊織さんを伺う。 伝わったかな。 伝えられたかな。 不安で胸がばくばくと騒ぐ。そうして向けた俺の視線の先で。伊織さんはしばらく呆けたような表情を浮かべ、それから。 はらはらと茜色の目から小さな涙を零し。 けれど、今までで一番幸せそうに笑っていた。 その姿を見た瞬間なんだかさっきまでの緊張が嘘みたいに景色に溶けて、俺は思わず笑ってしまった。あぁ、たのしいな。伊織さんにもらった音楽は、今でもやっぱりこんなに楽しい。 きっと今日俺は生まれて初めて、心の底から音楽を愛した。 それから数十分、ほとんど休憩を挟むことなく俺は夢中で弾き続けていた。 ――伊織さんの笑顔と、手拍子に合わせて。

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