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第1話

 真ん丸な月が、空に浮かんでいる。  月は大きく、金色に輝いていた。吾妻(あづま)清貴(きよたか)は自分の部屋の窓からそれを見つめている。まだ五歳の清貴には窓枠は高く、ゆえに学習机の椅子を引っ張ってきて、その上に乗っているのだ。そうすると、月が少し近くなったかのように感じられる。  緩やかな風が入ってきて、清貴の黒髪をさやさやと揺らす。それが頬をくすぐって、清貴は指先で髪を後ろにやった。それでもなお、彼は月を見つめている。 「月にはうさぎが住んでるって、本当かな?」  今日の月はうさぎではない、人の横顔をなぞっているように見えた。それは知っている者の顔にも見えるし、知らない誰かの顔にも見える。 「はぁ……」  清貴はため息とともに、月を見つめた。邪魔する雲のない月は眩しいほどで、清貴は何度もまばたきをした。これほど満月が美しく見える夜も珍しい。  なぜ自分が、これほど月に惹かれるのかはわからない。いつから、ということも記憶にはない。物心ついてから、としか言いようがなかった。清貴は手を伸ばす。そうすると月に触れられそうだと思ったのだ。 「あ」  清貴が伸ばした手が、なにかを感じた。まるで見えない手が、清貴の手を握ったように感じられる。その力は優しく、清貴を歓迎し連れていこうとしているかのようだった。 「清貴!」  背後からいきなり声をかけられて、清貴は驚いた。椅子から転がり落ちそうになり、そんな彼を抱きとめたのは母親だった。 「なにしてるの……そんなところに登って」 「お母さん……」  母親は驚くほどに強い力で、清貴を抱きしめた。そんなふうに抱きしめられたことのない清貴は目を見開き、まるで清貴が消えるのを恐れているかのような力にますます驚いた。 「なにしてたの」 「月……見てた」  清貴がそう言うと、母親は大きく震えた。そんな反応に、清貴も震える。 「月は、見ちゃだめ」  呻くように、母親は言った。 「特に、満月のときは。満月に向かって手を伸ばしちゃ、だめ」 「……だめ?」  母親の腕の中で、清貴は首を傾げる。ええ、と母親は厳しい口調で言った。  腕の中で守られながら、清貴はカーテンの引かれてしまった窓のほうを見やった。手を掴んできた感覚は、決していやなものではなかったのに。母親はなぜ清貴を止めたのだろう。その疑問はずっと、清貴の心の中に残り続けた。         ◆  それは清貴が中学二年生の、秋のことだった。  彼が通っている中学校では、秋に文化祭がある。清貴のクラスでは芝居を出しものとすることが決まり、その演目は『かぐや姫』だった。 「きれいにできた」  満足そうに息をついたのは、同じクラスの女子たちだった。そんな彼女たちの前で、膨れているのは清貴だ。 「どうして俺が、化粧なんかされなくちゃいけないんだよ……」 「まだ文句言ってるの」  女子のひとりが、清貴の顔を覗き込みながら呆れたようにそう言った。もうひとりの女子が手鏡を突きつけてくる。 「うわっ!」 「ほら、自分でも思わない? すっごく似合ってる」 「う……」  清貴は視線を逸らしていたものの、ちらりと鏡を見る。そこにいたのはまるで女で、清貴は顔を引きつらせた。 「吾妻くんは色も白いし、ニキビとかもできてないし、絶対化粧映えすると思ったのよね!」 「ほかの男子だったらメイクなんてとんでもないけど、吾妻くんだったら、絶対いけると思ってたから」  女子たちははしゃいでいるが、清貴は一緒に喜ぶ気になどなれない。大きなため息をついていると、ざわざわとたくさんの人たちがやってくる足音が聞こえた。 「うわっ、吾妻? まじで?」 「似合いすぎ、怖いんですけど……」 「俺が一番いやなんだから、そんなこと言うなよ」  悪い悪い、と言いながらも同級生は、遠慮もなく清貴を見ている。清貴が思わずそっぽを向くと、そこに現れたのは、色とりどりの布を抱えた男女だった。 「メイク終わった? じゃ、これ着てね」  目の前に広げられたのは、十二単である。もちろん中学生が見よう見まねで作ったものだから縫い目も怪しいぺらぺらの衣装だけれど、少し離れて見れば、それっぽく見えないでもない出来だった。 「吾妻くん、ますます美人になった」 「美人とか言うな……」  今現在の清貴は、宇宙一機嫌が悪い。しかし一方的に押されてしまったとはいえ、最終的にかぐや姫になることを了承したのは清貴だ。責任は最後まで取らなければならない。ちなみにかぐや姫に求婚する貴族の男たちは、すべて女子が配役されている。  ついでにロングヘアのウィッグまでかぶせられて、口をへの字に歪めたまま、清貴はステージになる体育館まで連れていかれた。衣装が足にまとわりつくのでゆっくりとしか歩けず、移動の間にはすれ違った学校中の者たちの視線を浴びて、もうこのまま走って逃げようかと思った。しかしかぐや姫がいなくなっては同級生たちが困るだろう。そう思って、懸命に羞恥に耐えた。  幕が開き、芝居がはじまる。十二単を着た清貴の出番は後半で、しきりにメイク直しをしたがる女子に抗いながら、清貴は出番を待つ。  誰でも知っているお伽話である。特に驚くような展開もなく、清貴は舞台に出ていった。巻き簀をいくつもくっつけて作った御簾の後ろに座っているときはそうでもなかったけれど、御簾から顔を出すシーンでは、なぜか会場に拍手が起きた。 「わたしは、月に帰らなくてはなりません」  必死に覚えた台詞を、清貴は口にする。 「おもうさま、おたあさま。今までお世話になりました」  そう言って清貴は、天井を仰ぐ。そこには金色の紙で作られた満月が吊るされている。 (満月……)  それを見て清貴は、はっとした。本物の美しさには敵うべくもない。しかし清貴の目には、まるで本当の満月のように映ったのだ。 (満月を見ちゃいけないって、お母さんが)  それは小さいころから言われていることだった。清貴はその言いつけを守ってきた。しかし今、目の前にはきらきら光る満月がある。 (……あ)  清貴は手を伸ばした。届くわけなどがない、それでもそうせずにはいられなかったのだ。 (あのとき、誰かが俺の手を掴んだ)  あのころの清貴は幼かったけれど、いまだにそのことを忘れてはいない。あのとき感じた、連れていかれそうな力。それでいて無理やりにではない、清貴の意思を尊重してくれている優しい力だった。 (あれはいったい、誰なんだろう)  久々に蘇った記憶に、清貴は自分が演技の途中であることを一瞬、忘れた。本気で満月に近づこうとし、しかしあれは作りものの月であり、自分を呼ぶ者などいないことに気がついた。 (あ、やば)  急いで意識を引き戻し、台詞を口にする。芝居は滞りなくスムーズに進み、清貴はほっとした。  胸のうちでは、昔から感じていた、月に惹かれる気持ちがますます大きくなっていた。         ◆  中学生のころ感じた、あの感覚。強烈な記憶。それは清貴の脳裏に焼きついていて、大学生になった今でも鮮やかに思い出せる。  それは清貴が大学の三年生になった春。今日は朧月夜で、月ははっきりと見えない。そんな夜の道を、清貴は歩いていた。 「……ん?」  誰かに呼ばれたような気がした。振り返ったけれど、人影はない。気のせいだったかと清貴はまた歩きはじめ、しかし再び呼ばれたような気がする。  反射的に清貴は、また振り向いた。やはり誰もいない。 (前も……こういうこと)  清貴は記憶を蘇らせようとした。誰かに呼ばれたような気がするのに、まわりには誰もいない。そういうことが今までも何回かあって、そのことを思い出すと清貴は、小さく笑った。自分に呆れたのだ。 (もう、いい加減に慣れればいいのに)  清貴は前を向き、歩きはじめた。呼ばれているような感覚が気のせいであろうとなかろうと、清貴に害をなすような気配もないのだから、ただ気にしなければいいだけの話だ。  清貴は朧月を見た。靄の向こうには輝く月があるのだろう。それを久しぶりに見たいと思ったが、それでも母親を悲しませるのは本意でないから、そんな心を押し殺し、そのまま歩いて家路についた。  風に当たろうと、清貴は自室の窓を開けた。ふと顔をあげると、空に素晴らしい満月が輝いていることに気がついた。雲が邪魔をすることもなく、月はくっきりと鮮やかに輝いている。  清貴は、窓から身を乗り出した。今まで見たことのないような満月。金色に輝く月に、少しでも近づきたいと思った。 「あ……」  月の振りまく光の中、見つめていると吸い込まれるような感覚がある。まるで自分の体重がなくなって、あちらに吸い込まれていきそうだ。反射的に清貴は手を伸ばす。するとぎゅっと手首を掴んでくる感覚があった。 「え、っ……!」  ただ力を感じただけで、目にはなにも見えない。清貴に見えているのは月の光だけで、それが手のような質量をもって清貴の腕を引っ張っているのだ。 「な、なに……?」  力はだんだんと強くなるが、しかし痛みは伝わってこない。自分の体が徐々に地面から浮き、掴んでくる手の力に従って外に出ようとしているのが清貴には感じられる。 「やっ……やだ、っ……!」  清貴は力を振り払おうとしたが、それは無駄な抵抗だった。清貴は引っ張られるままに窓から外に出ていて「落ちる!」と感じたのと同時に、そこから世界が真っ白になった。

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