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第2話(1)

 はっ、と息を吐いて、清貴は何度もまばたきをした。尻餅をついたらしくずきずきと痛くて、手を尻にまわして撫でる。  撫でながらまわりを見ると、一面の緑だった。鬱蒼とした森、とはこのような光景をいうのだろう。 「ここ……どこ」  清貴は見えない力で引っ張られて、窓から落ちそうになったはずだ。自宅のあるマンションのまわりには確かに生垣があるけれど、この緑は生垣などではない。ここは、どこかの見知らぬ森だ。 「俺……なんで」 「きゅるるる」  いきなり声がして、清貴は「わっ!」と勢いよく体を引いた。傍らにいたのは真っ白な毛並みの猿のような生きもので、じっと清貴を見つめている。 「きゅる? きゅるるる?」 「なんだ、おまえ……?」  見たことのない生きものではあるが、どこかかわいらしい。思わず手を伸ばして撫でようとすると、白い猿は「きゅる、きゅるるるる!」と叫び声をあげて、逃げていってしまった。 「驚かせたかな?」  なんとなく置いていかれたような気分とともに、清貴は立ちあがった。白い猿が走っていった方向に歩いていくと、「きゃああ!」と子供の叫び声がした。  清貴は走った。子供の声が近くなり、清貴は慌ててそちらに向かう。森の中で、姿が見えてきた。五歳くらいの子供が騒いでいる。 「あっ」  思わず清貴は声をあげた。白い髪をしたその子供の右足は、金属製の罠に挟まれていたのだ。 「大丈夫!?」  清貴は駆け寄り、罠に手をかけた。子供の足を挟んでいる仕掛けを力ずくで広げると、子供の足が抜けた。 「わっ!」  子供は驚いて悲鳴をあげた。しかし同時に驚いたのは、清貴のほうだった。  子供の頭の上には、うさぎのようにぴんと長い、白い耳が生えている。見れば尻には丸くて柔らかそうなしっぽもついていて、どうやらふざけてつけているのではない、生まれつきついているもののようなのだ。 「ありがとう、ありがとう!」  子供は大きな声で礼を言った。清貴にしてみれば、大したことはしていない。ああ、と頷いてなんとなく頭に手をやった。 「あなた、なんて名前?」 「あの……清貴、だよ」  どういう口調で接していいものかわからない。清貴は子供との距離を測りながら、慎重にそう言った。 「清貴っていうの?」  子供は首を傾げた。 「変なお名前だけど、でも優しい人だ!」  しかしその子は罠にかかっていたのだ。怪我がひどいらしい。赤い目にじわりと涙を浮かべている。 「痛いよな。かわいそうに……」  清貴は、うさぎ耳の子供の傷をじっと見た。赤い血が滲んでいる。思わずそっと手を添えた。そのようなことをしても、なににもならないのに。 「ん?」  自分の手のひらがなんだか温かい。どうしたのかと思って手を引っ込めると、子供の傷が塞がっている。血の痕が少し残っているだけで、もう痛くもなさそうだ。 「すごい! あなた、魔術師なの?」 「そんなんじゃないけど……」  いったいなにが起こったのか、清貴のほうが知りたい。首をひねりながらそう言うと、子供は手をあげてばんざいをした。 「よかった、よかった!」  子供は楽しそうに踊りはじめた。清貴はそれを唖然と見ている。 「あ、僕はね、アザミ!」  うさぎ耳の子供が言った。 「僕はね、うさぎなんだ。人間の姿を取ってるけど、うさぎなんだよ!」 「へぇ……」  そう言われても、清貴は目を見開くしかない。アザミはまた踊りはじめた。 (でも、いったいここは……?)  清貴はまわりをきょろきょろと見まわした。やはり緑の濃い森の中。アザミの姿を見ると、ゆったりとした貫頭衣をまとっている。緑の衣服は、アザミの容姿にぴったりと合っていた。 (俺の住んでいた、現代日本でないことは確かだ)  なぜ自分がここにいるのかはわからないけれど、それだけは確信できた。 「清貴は、すごいいい人だから」  アザミが元気な声を立てた。 「お城に連れていってあげる! お城はねぇ、すごいところなんだよ」 「お城……?」  アザミは清貴の手を取り、立ちあがらせる。そして怪我などなかったかのような勢いで、走りはじめた。 「わっ、ちょっと、ちょっと!」 「誰に会うかな? アスランさまかな、カヤさまかなぁ?」  しばらく走ると、ひらけた場所に出た。土を踏み固められてできた道を、馬車や馬が走っている。徒歩の者も多く、皆アザミと似たような衣装をまとっていた。 「あそこがお城だよ!」  アザミが指差した先には、大きな白い建物があった。たくさん伸びている尖塔の先は丸く、天に向かって尖っていて、いろいろな色に塗りわけられている。まるでお伽話のワンシーンだ。アザミは迷うことなく石畳を歩いていく。大きな門扉があって、そこには衛兵がいたけれど、アザミを見ると門を開けてくれる。 「そちらのかたは?」  衛兵はもっともなことを聞いた。アザミが声をあげる。 「清貴だよ。僕が罠にかかったの、助けてくれたの。清貴が手をこうやるとね、怪我が治っちゃうんだよ!」 「ほぉ、それはすごい」  感心した声を出した衛兵は、そのままふたりを通してくれる。自分でも理解できない不思議な力なのに、アザミも衛兵も、感心しこそすれ特別に不思議には思ってないようだ。  城の中に入ると、床は大理石だった。靴のまま歩くのは申し訳ないような、磨き抜かれた白い床だ。 「まずは、アスランさまに会ったほうがいいね」  明るい声で、アザミが言った。 「アスランさまにお願いすれば、きっといろいろ聞いてもらえるよ。清貴に会ったらお喜びになるだろうねぇ」  アスランとは何者か。先ほど名が出たカヤという人物も、どのような者だろうか。彼らに会うことで、清貴の身にはなにが起こるのか。  期待と不安に胸を高鳴らせながら、清貴はアザミに手を引かれて歩く。 「あ、カヤさま!」  清貴の胸がどきりと鳴った。向こうから歩いてくるのは、鮮やかな金色の髪、紫の瞳を持った男性だった。年のころは、二十歳の清貴と同じくらいか少し下のあたり。背はそれほど高くないが、筋肉のつきかたのバランスがいい。  なによりも印象的なのはその紫の瞳だ。磨かれた宝石のようなそれはなにかいたずらでも企んでいるかのようにきらきらと光り、彼の目に視線をとらえられてしまう。思わず見とれてしまって、清貴はふるふると首を振った。 (男相手に、見とれてどうする!)  アザミは、カヤという人物の前にぽんと飛び出した。 「この人、清貴っていうの。罠にかかった僕を助けてくれて、怪我も治してくれたの!」  アザミが言うと、カヤは「ほぅ」という顔をする。やはり、特に驚いた様子には見えない。 (この世界では、あたりまえのことなのかな……?)  カヤは清貴の前に立ち、首を傾げた。どうやら清貴のことを検分しているようで、居心地の悪さに清貴はもじもじとした。 「アザミが人間を拾ってくるとは、珍しいね。それとも……人間じゃないのかな?」 「お、俺は人間ですっ」  清貴は思わず声をあげてしまい、カヤがくすくす笑う。 「わかってるよ、アザミを救ってくれたというしね。ありがとう」 「いえ……別に、大したことでは」  ひょこりと頭を下げたカヤに、清貴は戸惑ってしまう。興味津々に清貴を見ているカヤだけれど、悪気は感じられない。心の底から好奇心でいっぱい、という感じなのだ。 (なんか、ちょっと……子供みたい)  清貴は、心の中で小さく笑った。 (この人は……どういう人なんだろう。王宮にいる人だけど、使用人には見えない……どっちかというと、貴族とか、王族とか)  そんなことを考えて、清貴は肩をすくめた。王族だったらどうしよう。自分は無礼なことをしていないだろうか。なにしろ清貴は、右も左もわからないのだから。  カヤが、はっとしたように後ろを振り向いた。そこに立っていたのは、背が高くて淡い赤の髪、水色の瞳をした人物だった。細い銀縁の眼鏡をかけている。 「アスラン」  カヤはそう言って、少し眉根に皺を作った。カヤにとって苦手な相手なのだろうかと思う清貴の前に、アスランと呼ばれた青年が歩いてくる。彼は清貴より年上のようだ。 (なんだか、すごく……真面目って感じ。ちょっとしたことで、すぐ怒りそう)  そう思った清貴の心が読めたわけではないだろうが、アスランはじろりと清貴を見る。清貴は思わず首をすくめた。 「何者だ、おまえは」  アスランが言った。清貴が頭を下げて挨拶をしようとしたところへ、アザミが口を挟んだ。 「森の中にいたんだよ。僕が罠にかかって困ってたの助けてくれて、怪我も治してくれたんだ!」 「怪我を、治した……?」  アスランは顎の下に手を置いて、訝しむような声で呟いた。清貴は思わず小さくなってしまう。清貴の不思議な力を初めて訝しがった人物だ。もっともこの反応こそが、あたりまえなのだけれど。アスランは常識的な人物だ。清貴はそう思った。 「ね、だから清貴はいい人だよ。どこから来たのか、僕にはわかんないんだけど。お城に置いてあげてもいいよね?」  アザミが甲高い声でそう言ったけれど、アスランはなおも清貴を訝しんでいるようだ。彼の水色の視線に、清貴はたじろいでしまう。 「いいんじゃない? アザミがこれだけ気に入っているんだ。よからぬ者じゃないことは、確かだ」  そう言ったのは、カヤだった。彼は腕を組んでアスランを睨んでいて、アスランも同じく厳しい視線を向けている。 (仲、悪いのかな?)  なぜだか清貴がどきどきしてしまい、ふたりを交互に見る。しかしカヤとアスランはふいと互いを見る目を逸らせ、アスランが清貴に問うた。 「どうやって、あの森にやってきた?」 「気がついたら、あそこにいたんです。どっかから落ちてきたみたいで、尻を打って……痛かった」  清貴の言葉に大声で笑ったのはカヤだったけれど、アスランは眉ひとつ動かさない。そのようなところもまた、性格の違いが表れていると思った。 「その、奇妙な服……確かに、青い星からやってきたという説明には足るな」 「青い星?」  清貴は思わず天を仰いだ。しかし今は昼間で、眩しく光る太陽が空にあるばかりだ。 「アザミの怪我を治したと?」 「はぁ……それは、自分でもよくわからないんですけど」  便利な力だとは思うが、もしかするとあのとき一回だけだったのかもしれない。今はまわりに怪我をしている人がいないので、試しようもなかった。 「青い星から来た者は、不思議な力を持っていることが多い。その点からも、おまえの出自を確かめることができるが」  そう言って、アスランは口を閉じた。カヤは面白そうな顔をして清貴たちを見ているが、口を挟もうという様子は見せない。 「ここは、金の星。その北方に位置する、マヴィボルジ王国だ」 「マヴィ……?」  言いにくい名前だったので、清貴は舌を噛みそうになった。そんな清貴を片目だけで見て、アスランは言った。 「おまえがそのつもりなら、我が国は青い星からの客人を歓迎しよう。この王宮の隅に、おまえの部屋を用意してやろう」 「そうなんですか……ありがとうございます」  清貴はほっとして、頭を下げた。なにしろ、着の身着のままなのである。表に放り出されれば、見知らぬ世界でホームレスになってしまう。  顔をあげると、なおもにやにやしながらカヤが清貴を見ている。カヤがなにも言わないのは、アスランよりも地位が低いからなのだろうか。確かにアスランの水色の瞳は理知的で、上に立つ人物として相応しいように思える。 「あの……俺」  だから清貴は、謎に思っていたことをアスランに訊いた。 「どうして俺は、この……マヴィボルジ王国に、来たんでしょう? もとの……青い星には帰れるんでしょうか?」 「さぁ」  アスランは、拍子抜けするくらいにあっさりとそう言った。 「そのようなこと、私が知っているわけがない。すべては神の思し召しだ」 「そうですか……」  肩を落としてしまった清貴を、慰めるようにアスランは言った。 「しかし、ものごとには必ず理由がある。おまえがここに来たことには、確かに意味があるのだ」 「そう、なんですか」  それを聞いて、清貴にはアスランの言うとおり自分がここに来た意味があるように思えたのだ。それは理屈ではない、身を貫く直感だ――心の奥から感じる衝動だ。清貴は、反射的に胸に手を置いた。 「意味が、あるんですか」 「ああ」  清貴の言葉に、アスランは頷いた。 「この世に、無意味なことなどない。おまえの存在にも、もちろんわけがある……ゆえに、ここにいるのだ」  清貴はアスランの細めた目を見、面白そうな顔をしているカヤを見、わくわくする心を隠しもしないアザミを見た。 「アスランさま、清貴のお部屋はどこ? 僕が案内してあげる」  アザミは清貴の手を取って、ぶんぶんと振りまわした。それに体のバランスを崩されそうになりながら、清貴はアスランを、そしてカヤを見た。アスランは目を細めてなにかを考えているようだし、カヤは清貴をどうからかおうか企んでいるように見える。 (俺、この先……どうなっちゃうんだろう)  アザミに手を取られたまま、清貴は考えた。 (いきなりこんなところに来て。この世界って……いったい、どういうところ?)  好奇心をそそられないわけではない。しかしそれ以上に不安が勝って、清貴は大きくため息をついた。

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