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魔法の飲み物ー2

 大竹が豆を挽く音を聞きながら、でも、少なくとも高柳と先生は、今日は研究なんてしていない筈だと思った。  きっと、先生は朝まで高柳の布団で眠っていた筈だ。  それからひょっとしたら、朝起きてから、邪魔者のいなくなったベッドで……。  頭の中が、沸騰しそうだった。  どうせ先生達は好き合っていて、何度も何度も、何年も前から数え切れない位愛し合っていて、俺なんかマンネリ防止の玩具で……。  もしこれが山中が持ちかけてきた話なら、ひょっとしたら目が醒めたのかもしれない。ひどい淫乱だと鼻白んで、さっさと逃げ出したのかもしれない。  でも仕掛けてきたのは高柳で、先生は俺と同じように途惑って嫌がっていた。そう思うと、同じように高柳に良いようにされている同志のような気がして、余計に愛しさが募るのだ。  どうして先生は、あんな男が好きなんだろう……。最低じゃん、あんな男。俺だったら、好きな人を他人になんて触らせない。先生が嫌がってるのにあんなことさせて……それなのに、どうして先生は……。  ふと苦い笑いがこみ上げる。  先生が嫌がってるのにあんなこと……?  それを、俺が言うのか……?  昏い気持ちに押しつぶされそうになった時、不意に豆を挽く音が止んだ。顔を上げると、大竹が薄皮を軽く吹き飛ばしてから、豆をドリッパーに移しているところだった。ヤカンで沸かしたお湯を少し冷ましてから、丁寧にお湯を注いでいく。  あんまり良い匂いで、嫌なことを一瞬忘れた。  手渡されたカップは、今日はちゃんとしたマグカップだった。どうせ100均辺りで買ってきた物だろうが、紙コップでないことが、少しだけ嬉しかった。 「良い匂い……」 「そうだろう。コーヒーは恋を忘れた男をその気にさせる魔法の飲み物なんだそうだ」 「は?」  あんまり大竹が似合わないことを言ったので、設楽は最初何を言われたのか分からなかった。  は?恋?え?何言った、こいつ? 「知らないか?相当昔の歌だが、時々誰かしらがコピーしてる。俺は陽水のコピーが好きだ」 「あ、歌?」 「そう。恋を忘れた哀れな男がコーヒー飲んで若い娘と恋に落ちるんだ」  それにしたって何言い出すんだろう……。大竹先生がこんな話するの、初めて聞いた……。  いやでも、一応冗談を言ったのだろうから、乗ってやらないと悪いか……? 「それで、先生は誰かと恋に落ちた?」 「俺じゃなくて、お前だろ」  え? 「早くまともな恋くらいしろ、青少年」 「お、俺だって恋くらい……!」  恋くらい、してる。  苦しくて苦しくて、でも自ら飛び込まずにはいられないような、恋を。  でもそれは、誰にも言うことはできない恋だ。  何も言えなくなってコーヒーカップを握りしめていた設楽の目に、窓際に置かれた大小いくつかの瓶が目に入った。話を終わらせる良い機会だと、その瓶に触れてみる。 「これ何?」 「結晶作って遊ぶ奴、したことないか?」  瓶の中には、無色透明で三角を組み合わてできた四角い立体(正八面体だと、後で大竹が教えてくれた)や、小さな木にびっしりと雪が降り積もったような結晶、青くて平らな結晶や、赤い結晶、紫の結晶など、様々な色や形の結晶が、水の中に吊されていたり、綿の上に置かれたりしていた。 「え~、何これ、綺麗」 「青いのは硫酸銅だけど、後のはほとんどミョウバンだ。子供向けの実験キットも売ってるぞ。紫のは硫酸カリウムクロムとカリミョウバンを混成させた奴で、そっちの細かい雪みたいに積もってんのは尿素だな」 「尿…?え、待って待って待って。ミョウバンってナスの漬け物に使う奴?」 「マジでお前の中身はオカンだな。で、赤いのは」 「待ってってば!硫酸カリウム……?って、なに?」 「いや、赤いのは普通にミョウバンに食紅混ぜて作った」 「え?」 「そもそもミョウバンは」 「うわ、ちょっと待って!その講義は後で聞くから!食紅?」 「意外と絵の具でできる色もある」 「え~?マジで?すげぇ面白そう!」  気に入ったなら持っていけと、直径3cm程の大きな正八面体の結晶が入った瓶を渡してくれた。その瓶を、窓の光に透かしてみる。  ────いつも山中がしているように。

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