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保健室ー1

 学祭に向けての実験は順調に進んでいった。最初は「面倒だから関わらん」と言っていた上級生達も、ちょいちょい手を出してくるようになった。パネルの制作も手伝ってくれている。なんだかんだ言って、こういう事がみんな好きなのだ。 「お前の計画書で行くと、今日でもう最後?」 「もうって、学祭4日後なんですから、ぎりぎりっすよ」  今日は手順に馴れてから、最後にやるように言われていた硫酸銅に挑戦する。  口に入れても問題のないミョウバンと違って、硫酸銅は僅かだが人体に害がある。飽和水溶液のレシピも違うし、結晶を作る核の巻き方も違うのだから、設楽はもう一度手順書に目を通してから材料を揃え始めた。硫酸銅の重さを量り、水を規定通りビーカーに入れ、アルコールランプに火をかける。 「調子どうだ」  大竹が覗きに来た。レシピを確認して、真っ青なビーカーの中を覗き、ぽんぽんと設楽の頭を叩く。 「順調そうだな」 「うん。後はパネル作るだけだけど、先輩達も手伝ってくれるから」 「そうか」  同じビーカーを覗いていると、不思議な気持ちがした。  本来、ここでこうして生徒の手順を見守るのは、化学部顧問の高柳の筈だ。なのに、今自分の隣にいるのは、「クソじじい」の大竹なのだ。  自分の仕事でもないのに大竹はこうして要所要所で面倒を見てくれる。言葉は少ないし口を開けば厭味ばかりだが、大竹はちゃんと自分達を見守ってくれている。  高柳とは何という違いだろう。  大竹のことは何も知らないし、化学室と化学準備室でしか接点はないのだけれど、あんな高柳なんかより設楽はずっと大竹を信頼していた。  結晶の核を最後にチェックすると、大竹はそのまま頷いて化学準備室に戻ろうと、準備室に通じる扉に手をかけた。  その時。  扉の奥に、高柳の姿が見えた。  高柳……。  ひやりと、背中が冷えた。そこにいると思っていなかった人物の姿を見て、思わず狼狽える。  土曜日に先生を抱いて、声を枯らすほど啼かせた高柳。  先生に抱かれる俺を、ラグの上から睨みつけていた高柳の視線を思い出したとき、バリンと硬い音がした。 「設楽!?」 「あちっ!」  大竹と高柳が同時に化学室に駆け込んできた。  60℃に保たなければいけない水溶液は、高柳に気を取られているうちに沸騰しかけていた。びくりと震えた設楽の腕が三脚に当たり、ビーカーが倒れ、下に置いていた瓶に当たって割れたのだ。こぼれた硫酸銅水溶液が設楽のシャツを青く染めていく。 「うわ!やべ!」 「触るな!」  大竹が叫んだときには、反射的に割れたビーカーを集めようとした設楽の手から、血が噴き出していた。 「このバカ!高柳、後頼む!」  大竹はすぐに設楽の手をシンクに突っ込むと、蛇口を開けて水をぶっかけた。ジンジンと手が痛む。火傷の痛みなのか、キズの痛みなのか。 「ほら、保健室行くぞ!」 「え?大丈夫だよ!そんなに傷も深そうじゃないし!」  実験台の上に目をやると、高柳と先輩達が机の上を拭いているのが見えた。高柳が、ちらりとこちらを見た。さすがに気まずそうな顔をしている。 「バカ言うな!来い!」 「バカにバカって言う奴がバカなんだぞ!」 「うるさい!」  大竹は設楽の腕を引っ張って、廊下に引きずり出した。保健室に向かいながら携帯電話を取り出し、どこかに電話をかける。 「高等部化学科教諭の大竹です。生徒が硫酸銅飽和水溶液入りのビーカーを割って、怪我をしました。火傷もしてるかもしれません。お願いします」  携帯を切って、大竹が設楽を睨みつける。さすがに設楽は小さくなって「ごめん、先生」と素直に謝った。 「やっちまったもんはしょうがねぇ。一応薬品なんだから、校医呼んだぞ。きちんと処置してもらえ」  結構ざっくり切れたようで、ハンカチで抑えた指からまだ血が出ている。大竹のハンカチだ。心配かけたのだと思うと、ビーカーを割った事以上に申し訳なかった。  大竹は設楽を急かすように腕を引いて、それ以上は何も言わずに保健室に向かって歩いていく。  保健室に入ろうとしたら、向こうから白衣を着た男が足早に近寄ってきた。 「大竹先生、その子?」 「お願いします」  藤光学園の敷地の向かいには、理事長一族が経営している病院がある。その病院の中にいる医師の1人が、藤光学園の校医として、事があるとすぐ駆けつけるシステムになっているのだ。  校医に設楽を任せると、大竹はすぐに踵を返した。部活中とはいえ、生徒が薬品を扱っている最中に怪我をしたのだ。大竹か高柳が、何らかの叱責を受けるのではないかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

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