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保健室ー2
「ごめん、先生。俺がぼけっとしてたから」
さっさと化学室に帰ろうとした大竹の背中に向かって謝ると、大竹は小さく振り返った。
「そう思うんなら、これから気をつけることだ」
いつもはクソがつくほど喧しい大竹だが、既に反省をしている設楽をそれ以上叱ってもしょうがないと、顎で保健室の中へ入るようにと促した。
保健室の中では養護教諭が待っていて、校医が処置をする間、利用カードを作るために名前を訊いてきた。
「あ、1年D組の設楽設楽です」
「……設楽?」
校医が片眉を上げて、眼鏡越しに設楽の顔を眺めた。意外な物でも見る目つきだ。
「え…先生?」
「成る程ね、そりゃ薬品使ってる最中だってのに、ぼ~っとして怪我くらいするわ」
目の前の校医の端正に整った顔を見ながら、やはり全く見覚えがないことを確認する。何故初対面の校医に、こんな事を言われるのか。
「あ、吉沢先生、後やっときますからもう帰って良いですよ」
「そうですか?それじゃあ……」
40代半ばの養護教諭は、校医の眼鏡越しの視線を浴びて、頬を微かに赤く染め、保健室を後にした。
放課後の保健室に、得体の知れない校医と2人きり……。この先生、男のくせにすげー美人なんですけど……。よけい怖いわ……。
「……君が今何を考えてるのか、透けて見えるんだけど……?」
指先の処置をしながら校医は冷たく言い放ち、それからにやりと笑った。
「君、設楽君だろう?高柳やユキから色々聞いてるよ」
「え?」
今この人、山中先生のことユキって言った?
そんな呼び方を他の教師がしているのを聞いたことはない。
「はい、完了」
指先に綺麗に巻かれた包帯を見ながら、設楽は頭に浮かんだ可能性を口に出してみる。
「あ…ひょっとして、笹原先生……?」
男は返事をする替わりに、首から提げたIDを設楽に見せた。そこには顔写真と共に『学校法人藤光学園 校医 笹原裕紀』の文字が記されていた。
……ということは。
「え、高柳達、先生に何か言ったの……?」
「まぁ、だいたい全部かな。教育倫理にもとる最低な奴らだけど、あいつらが最低なのは昔からだからね」
そう言う笹原も、胸ポケットから煙草と携帯灰皿を取り出して、さっさと煙を吐き出している。
「……校内禁煙だろ。医者のくせに良いのかよ」
「あなたの健康を損なうおそれがありますって?」
恐ろしく整った顔から、毒と共に煙を吐き出す。
……うーん。確かに高柳の友達だ……。
「君はさぁ、何で高柳のバカに付き合ってやってるの?ユキが好きって言っても、普通こんなバカげた話には乗らないよね?」
いきなりの直球である。
……何の前置きもなく、いきなりそれかよ……。
確かに、完全な片思いな上に、マンネリ防止の為の玩具にされているのだ。それが分かって付き合うのは、正直プライドもズタズタだし、あまりにも空しい。
「でも、それでも俺は、先生に俺を見てもらえるなら、何でも良いんだよ」
「……純情だなぁ……」
煙草を1本吸い終えて吸い殻を携帯灰皿に片付けると、笹原は保健室のドアに鍵をかけた。それからベッドの上に腰をかけ、設楽にも座れと促してくる。
「ねぇ、何で高柳は俺にこんな事をけしかけるの?先生何か知ってる?こんな事するなんて、高柳が先生を本当に好きだとは思えないよ!」
「……本当に何にも聞いてないんだな……」
艶やかな前髪を、笹原がそっと掻き上げる。少しだけ何かを躊躇っていたが、ひとつ細い溜息をつくと「フェアじゃないよなぁ」と口の中で呟いた。
「先生?」
「……あのな、ひとつ間違えちゃいけないのは、惚れてるのは、ユキの方だってこと」
惚れているのは、ユキの方……?
「それじゃあ、高柳は!?高柳は遊びだとでも言うつもりなのか!?」
設楽の勢いに、笹原は少し苦笑した。本当にユキが好きなのか、それとも正義感を恋と勘違いしているだけなのか。少なくとも、自分にはこんな熱さはない。大人になりきれていない少年特有の感情が、少し羨ましくなる。
「いや、ゴメン、そうじゃない。あいつは、もう壊れてるんだよ。まぁ、どっちもどっちなんだけど」
「壊れてる?どういう事……?」
「……まぁ、君が何も知らないのはフェアじゃないと思うからぶちまけちゃうんだけどさ」
俺も2人から聞いただけなんだけどね、と前置きしてから、笹原は話し始めた。
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