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防波堤‐1

 翌日、何もする気になれなくて、でも家に帰る気にもなれず、設楽はいつものように化学準備室に向かった。大竹はちらりと採点中のプリントから目を上げて設楽を見ると、口の中で小さく「よう」と言って、また赤ペンを動かし始めた。  設楽は勝手に大竹の隣りに椅子を持ってくると、そこに座り込んで大きく溜息をついた。そのまま、両腕を机の上に投げ出して、そこに顔を埋める。 「何だ。化学部出ないのか」 「あー、今日は何か、何にもする気がしなくて……」 「ガキが生意気な」  そう言いながらも、大竹は設楽のためにコーヒーを淹れてくれた。わざわざ自分のためだけに淹れられるコーヒーというのは、なんて贅沢な味がするのだろう。 「おい高校生、どうせならそこで宿題でもしたらどうだ」 「うわ、先生でもそんな先生らしいことを言うんだね」  大竹の台詞をからかいながら、それでも大人しくその台詞に従って、リーダーの教科書を取り出す。机に広げようと思ったが、大竹の机はもちろん大竹が使っているし、高柳の机の上は相変わらず物が積み上がっている。いつもこの部屋にいないくせに、どうしてこんなに物を出しっ放しにしておくのだろうか。   溜息をついてから辺りを見渡すと、目が窓辺の瓶を捉えた。  結晶の入った瓶が1つ増えている……。 「あれ?これ、新しい?」  広口瓶の中に置かれた結晶は、アクアマリンそっくりな、水色をしていた。 「あぁ、昨日作った」 「えー、綺麗な色だなぁ。これ、何の色?」 「普通に染料とミョウバンだ。たまにはこういう色目も良いかと思ってな」 「色遊びかぁ。そういうのも楽しそうだね」  直径1cm程のさほど大きくもない結晶だが、色は驚くほど綺麗だった。今まで大竹の作ってきた色とりどりの結晶中のでも、明る気なそのブルーはとりわけ美しく、瑞々しい。 「いや、そいつを種結晶にして、透明なミョウバンを周りに巻いてみようかと思ってさ」 「え!?何それ!面白そう!」  何もやる気がしないと思っていたのに、結晶は別だったらしい。「俺にも手伝わせてよ」と言ってみたが、大竹はつれなく「俺の楽しみだ、邪魔するな」と断った。 「ちぇー。じゃあ俺も真似して作ってみよーっと」 「学祭も終わったのにまだ結晶か。飽きない奴だな」 「先生に言われたくないよ」  大竹のアクアマリンの結晶を眺めていたら、小早川が入ってきて、アルコールランプを借りていった。 「設楽、今日べっこう飴作るけど、やらない?」 「すいません、今日ちょっと具合悪いんで……」 「あぁ、了解」  小早川は具合が悪いと言った設楽が準備室でコーヒーを飲んでいる事については何も気にしていないような顔をして、さっさと準備室から出て行った。化学部はなぁなぁの部活だ。学祭前後から急に部活に身を入れるようになったが、美術準備室の周りをうろつきたいがためだけに化学部に入った設楽は、元々何かというと部活をさぼってばかりだったので、小早川も馴れているのだろう。  大竹と設楽は何となく目を合わせて、肩を竦めながら小さく笑った。それから設楽はまたアクアマリンの結晶を眺めて、どんな結晶を作ろうかと想像を逞しくする。 「これさぁ、真っ赤な結晶を核にしてさ、周りをオレンジで巻いたら、ファイヤーオパールみたいならないかな」 「あぁ、グラデか。奥行きのある良いのができるんじゃないか?」  頭の中に浮かんだのは、朝焼けの中で見た、山中の部屋のオブジェが作る美しい影だ。あの、たった1度だけ迎えた2人きりの美しい朝焼けを、結晶に閉じこめたかった。 「先生、種結晶ってすぐ用意できる?」 「種結晶も自分で作ったらどうだ。最初から真っ赤な色水で。その方がグラデ綺麗に出るだろ」 「簡単?」 「そんな手間じゃねぇな」 「じゃあ……明日にでも作ろうかな」 「土曜は?」 「え?」  意外なことを言われ、設楽は顔を上げた。  藤光学園は、土曜は休みだ。運動部などは土曜でも部活で学校に来るが、少なくとも化学部では今までそんなことは聞いたことがない。しかも土曜日って……わざわざ土曜……?

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